「富國」
このページについて
時事新報に掲載された「富國」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
富國
世人動もすれば東洋の日本を西洋の英國に似たりと云ふ如何さま四面海を環らし近く大陸に接するは兩國甚だ相似たり同じく北温帯の中に國して氣候冲和一年平均六十度内外の温度なるは兩國甚だ相似たり人口の多寡も略ぼ相似て歴史上の事實も亦相似たり兩國の地理氣候人口歴史の相似たること凡そ此くの如くにして彼れは世界に雄飛すれども是れは其一隅に雌伏し一方の名聲は赫々たれども一方の氣息は奄々たるは何ぞや軍人は説を爲して英國は古來軍事を重んじ其海軍の盛んなるは實に世界を震懾して海上王の名あれども年々歳々擴張を圖りて少しも怠りたる氣色なく一昨年中國防論の喧しきに當りては向ふ數年間に於て七十艘の軍艦を新製するに決したり即ち海軍強盛は英國の英國たる所以にして日本をして果して東洋の英國たらしめんとするには我が海軍を擴張して威武を耀かすの外なかる可し云々と語り宗教家は英國人が世界第一の信神家にして其道德の堅固なる、家に在ては一夫一婦、親睦和合して子女を感化し人に交はりては深切敦厚、所謂言篤敬、行忠信なれば蠻貊といへども行はれんの概あるが故に世界各國の人々に對して今日の威信を博するに至りたることなれば日本の人も信神堅固、彼の英國人の如くならんには神の應護を以て英國同樣の繁榮を受く可しと云ひ又學問工藝の士は英國の學問駸々として今哲學者にはスペンセル詩人にテニソン理學にタムソン化學にロスコーの如き大家あり又工藝技術に就ては繪畫にフレデリツク レートン、アルマ タデマ彫刻にアルフレツト ギルバート建築にジー エヂソンの如き名人あり古人の推理發明をますます利用普及して人生の便利快樂を增し智を開き德を養ひ心神を高尚の域に導くが故に天下公衆知らず識らず其化育の中に入りて世道人心自から清烈なる者にして學問工藝世を益するの霊功妙德果して英國の如くならんには世界文明の道塲に入り轆を並べて相馳すること決して難事に非ざる可しとて堅く其説を主張する者あり人の意見は其専にする所に偏し易く所謂我が田に水を引きて思ひ思ひの説を爲すは固より怪しむに足らざれども我輩を以て之を視れば右等の説は要するに片眼の見たるに過ぎず今英國よりの最近報に據るに兼ねて英國の國富調査に有名なるギツフエン氏は此程英國統計協會に於て千八百八十五年英、蘇、愛聯合王國の國富並に歳入を報告演説したる其報告中に同年英國(聯合王國)の國富は實に百億三千七百四十三萬六千磅(本年三月一日大藏省告示第十二號にては英貨一磅を日本銀貨六圓三十錢六厘と見積りたり)にして其歳入は五億五千四百二萬二千磅に上り其中重立ちたる條項二三を擧ぐれば
土地 一、六九一、三一三。〇〇〇磅 其歳入 六五、〇三九、〇〇〇磅
家屋 一、九二六、八八五、〇〇〇 同 一二八、四五九、〇〇〇
舗道 一、〇〇七、七二〇、〇〇〇 同 三七、〇七八、〇〇〇
運河 七〇、九二〇、〇〇〇 同 三、五四六、〇〇〇
瓦斯 一二五、六五〇、〇〇〇 同 五、〇二六、〇〇〇
水道 六五、二〇〇、〇〇〇 同 三、二六〇、〇〇〇
とあり目下諸統計術の不完全なるは世界各國何れも同樣にして英の如き國柄にても精密に國富を數ふるに由なく以上の數は唯中らずと雖も遠からざる者として見る可し又同氏の報告に英國の富は年々增加し千八百七十五年には八十五億四千八百萬磅なりしに同八十五年には前條既に記載せし如く百億三千七百萬磅強に達し凡そ此十年間に十四億八千九百萬磅即ち一割七分餘を增加したるの割合なりと云ふ然るに今我日本の國の富は果して何億磅なるや又その歳入は何程なるや我輩未だ之を知らずと雖ども假りに鐡道の一項を取りて我が鐡道諸會社の資本合計と對比せば其差違の何程大なるや推して其他を知ることを得べし即ち〓爾たる英國内に國富百億磅以上を有するは英國の英國たる所以にして爰に此富國あれば海軍を擴張するも容易なり學問工藝を奬勵するも容易なり寺院を建立して弘教を謀るも亦甚だ容易ならん富を養ふは文明人事萬端の手始めにして近世軍事の擴張に金を要するは申すに及はず例へば學問奬勵にも先だつものは金なるべし完全なる學校の組織を立て洪大なる動植物園、博物館等を備へ或は學問上の探求に亞弗利加、亞米利加、北氷洋等に遠征するの事業を擧けんとすれば其費用も莫大にして貧乏國の能くす可き所に非ず現に本年度英國政府がブリチシミユージアムと稱する一博物館に對する保助金豫算は十五萬五千九百七十五磅に上るを見ても其他學問奬勵費の大なるを知るべし又工藝を發育するには富豪の人が大金を投じて其工藝品を購入し工藝者をして其技を磨くの地を得せしむること肝要にして工藝者の報酬多からざる塲所には瘠土に花木の繁茂せざると一般、霊工妙技の發達す可しとも思はれず即ち今の社會にては先づ其富国の基を立て武事文藝の一切の人事、根を其上に托せしむること大切にして古き根本論は暫く置き今日只今東洋の日本が統計數字の上に於て遠く西洋の英國に及ばざる者は其國の富なりと申す可し近來我が日本國には國權論者なる者あり日本は自から所長あり美術は云々、學問は云々、又宗教は云々なりとて我國の西洋諸國に優るあるも決して劣らざるを示すものゝ如し是等の事は論者の説の附け次第にて如何樣にも説き去る可しと雖ども爭はれぬ者は其國富の金高にして此一事に至りては如何なる國權論者にても數字の上にて閉口せざる可らざるが故に空論大言は他日に讓り我が日本をして果して東洋の英國たらしめんとすれば先づ我が國富の金高を增して數字の脊丈けの彼れに及ばんことを勉めざる可らざる者なり