「富國強兵」

last updated: 2019-09-29

このページについて

時事新報に掲載された「富國強兵」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

富國強兵

武を以て國を立つるの風は次第次第に衰へて商業立國の傾を生するに至りたるは今の世界の大勢なり蓋し徃時の武事なるものは至て簡單なる者にして勝負は武器の精粗に關せず腕力逞くして勇氣に富めば竹槍席旗を以て天下を威服し戰勝者として大國を領するの例珍らしからず例へば彼のサクソン人が徒手を以て英國を取りノルマン人が之れに代りて又之を押領する等戰闘の事に勇なるものは空拳以て大功を立つることを得たりしかば當時社會一切の人事は孰れも道を武事に讓りて商賣も學問も農工業も毎度武事に蹂躙されて之れに甘んじたることなれども近時蒸汽電氣の發明あり續て破裂藥等の工夫ありて之を軍器に適用するに及んでは兵の利鈍必ずしも勇氣腕力のみに存せず國富みて多くの軍艦を備へ砲臺壘壁堅固を極めて海陸の兵には絶えず新改良の銃砲を給し敵に一門の大砲を增せば我れは十門を增加すと云ふ斯かる比例に進むときは戰はずして既に其勝を卜すべく今の軍國の間柄は云はゞ軍費の多寡較にして大體計上よりして其兵の精粗強弱を判斷することを得る程なり左れば武備の大切なるは古今相異ならずと雖ども相異なるものは其武備の費用にして今は昔と事換はり一艘の軍艦を製するにも幾十幾百萬圓を要するが故に武備云々の談に先だちて之を辨ずる其費用の出處に着目することとは爲れり即ち文明各國に於て特に商業を重んじて武事の上に位せしむる所以にして例へば近年英國が東洋艦隊の數を增して幾多の軍艦を印度支那の近海に備へ置くも徒に武威を張るに非ず唯その武を利用して商賣を保護するが爲めのみ又昨今同國中に國防論を唱ふる者多く現政府も其議を容れて大に軍艦を增加するの豫算なれども目的とする所は倫敦、グラスゴー、リヴアプール及びエヂンバラを始めとして英國の諸商港を防禦するに在りと云へり扨て又近來米國にても軍備擴張の説あれども其説の要點を叩けば矢張り商賣を保護するに外ならず盖し近年米國にては商業の發達著しく東部海岸の大都府は大厦高屋海に面して軒々相櫛比すれども海防は誠に薄弱にして一朝事あるの日に當り之を防禦するの備なく萬一敵の砲丸の爲めに一商館を破損さるゝことあるも尚且つ軍艦一二艘を製する程の損失を生ず可きが故に此等の商館にては戰時の保険料として進んで其海防費を醵出せんとするものなれば是れぞ眞實商賣其物の重きに因りて始めて起りたる軍備論と云ふ可きのみ又獨佛兩國の如きは國交際上一種特別の關係ありて互に武を重んぜざる可らざるの勢を成したれども獨逸が聯邦統一以來大に商業を奬勵するは人の能く知る所にして佛國も亦近時その商工を發育するの道を講じ公論の向ふ所ブーランゼー將軍の如き者すら口を開けば必ず先づ商工奬勵の要務を説くに至れり左れば今の文明各國は商業立國の方向を取らざる者なく昔は武事の都合に因りて毎度國の商業を蹂躙したることなれども今は商業を保護するが爲めに武備を修むるの都合にして武事商業古今その主客の位地を變じて商業に重きを加へたる者即ち今の文明世界の大勢なりと云ふ可きなり

從來我が日本國にては毎度國防論の喧しきことあれども論者の着眼漠然として曾て國富の如何を察せず試に統計表を按じて前十年間に我が國富何程を加へたれば後十年間に何程の軍備を增さゞる可らずなど申す論鋒は從來餘り見受ざる所なれども今後國防の事を論ずる者は先づ國富に着眼せざる可らず國富は年來依然たるに徒に國防を嚴にするは貯金の高の增さずして徒に弗箱を堅固にするが如く其弗箱の代價を積て之を箱の中の金に比せば尋常保険料に幾倍して利息勘定の上得失相償はざるの奇相なしとも云ふ可らず我輩は前號にも陳述せし如く英國政府は一昨年中國防の説を主張して海軍大臣ハミルトン卿は向ふ數年間を期し軍艦七十艘を新製するの議案を國會議院に提出し遂に其可決を得たりしが今軍艦一艘を假りに十五萬磅即ち凡そ我が百萬圓と見積れば七十艘は千零五十萬磅即ち我が七千萬圓ばかりにして數年間の軍艦製造費が殆んど我が政府の歳入に匹敵せんとする程なれども又一方より英國の國富を見れば千八百八十五年の計算に百億三千七百萬磅餘にして是れより前十年間に十四億八千九百萬磅を增したりと云へば是より後にも同比例を以て增すことなるべく國富が十年間に於て十幾億磅を加ふるに比すれば向ふ數年間に於て一千萬磅位の弗箱即ち軍備を作るは高の知れたる割合にして一見すれば莫大の軍備金なるが如くなれども國富と相比較して考ふれば至て輕少の者たるを知る可きなり近年或る哲學者の説に世に軍備金ほど馬鹿馬鹿しき者なければ各國共議して之を廢し國交際上の爭は萬國公法に訴へて穩に裁判を乞ふ可し云々と云へども是れは事實に行はる可きに非ず然る以上は其馬鹿馬鹿しきにも關せず各國相應の軍備を爲さゞる可らざれども其軍備の擴張は常に其國富の增加に續て起るの順序に因らざる可らず即ち英國の國防論の如き此順序に因りて起りたる者にして我輩は今後我が國防を論ずる者が先づ國富の點に注目して所言の漠然に陥らざらんこと偏に希望に堪へざるなり