「世の中を賑かにする事」
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時事新報に掲載された「世の中を賑かにする事」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
我輩は前號の紙上に於て今の金融切迫を救ふの一端として、政府の筋に所謂取締なるものを寛にし、何等の商
賣にても凡そ人氣を引立る事柄なれば、之を人民の自由に任して運動せしむ可し、例へば富講の興行、相場所の
新設等も、自から其一法なる可しとの次第を陳べたり。卽ち商賣社會を賑かにするの方略にして、左まで深き道
理あるに非ず。本來今日の金融切迫は其原因の大なるものありとは雖も、差向きの所は人々に憶病心を生じて、
所有の金を手元より出すを好まず、此處にも滯り其處にも積りて、一時の閉塞を致したる事情も少なからざるが
故に、此一時の事情を察し、之を救ふの方便に就ても亦、深く道理を考へずして一時の機轉策を施すこと肝要な
る可し。然るに爰に不幸なるは、我政府の政略、常に巖重正格にして、其餘勢は時として磊落大膽の旨を缺くこ
とあるの一事なり。例へば過日大坂にて大勢の米商人を拘引し、一應取調の上、僅に數名を留め置くのみにて他
は皆放免したるよし。假に十名の犯則者を求るが爲めに二百名を拘引すれば、其百九十名の商人は恰も天災に罹
りて其日の生計を失ふたるものに異ならず、榮辱論は姑く擱き、渡世の爲めに誠に迷惑なりと云ふ可し。我輩の
所見にて、政府が米商會所に對する關係は唯脱税を防ぐの一事あるのみ。揚所にて米を賣買して至當の税を納れ
ば、他に憂る所のものはある可らず。故に此脱税を防ぐ爲には、大藏省より吏員を派出するか、瑕令へ或は警吏
を用るも、其警吏は大藏省の依賴に應じ、同省の權限内に運動して相當なるが如し。然るに從前の慣行にては、
警察が獨立の權を以て相場所に干渉し、容易に人を拘引して又隨て容易に放免し、商人等の難澁この上もある可
らず。或は現行の相場所條例に從ひ、警吏に斯る權力あるか、又は單に警察法に於て斯る處分を施すこと要用な
るか、若しも然らんには、商賣を保護し民安を衞るの條例、警察法にして尚未だ完全ならざるか如し。速に改正
こそ願はしけれ。右の騒動は一時拘引せられたる商人等の難澁に止まらず、忽ち堂島の不景氣を致して、大坂近
傍の各相場所も共に不景氣を相伴したるよし。卽ち商人等の恐怖不安心を引起し、爲めに商賣の活気を殺ぐもの
にして、殊に昨今の時節に大なる不利益と云はざるを得ず。畢竟その本は吏人の惡意にあらず、唯法に從て取締
を重んずるの一念に出でたることなれば、固より其人を咎む可きにあらざれども、政府の上流より経世の眼を以
て視るときは、決して喜ぶ可きに非ず。又彼のブールスの如きも、今の相場所を不取締なりとして發意せし意味
もあらんなれども、是等は實に議論の外にして、若しもブールスをして實際に行はれしめんには、政府の憂る不
取締はますます甚だしからざるを得ず。如何となれば今の日本の商賣取引の習慣に於て、強てブールスに從はん
とすれば、是非とも犯則に陷らざるを得ざればなり。右の次第なれば、政府の當局者は大に經世の活眼を開き、
磊落大膽の政略を以て、區々たる舊筆法の取締などを云はず、富講にても相場所にても、唯人心の赴く所に從て
其自動を許し、之を利用して聊かにても金融社會の生力を挽囘して、商人等を塗炭に救ふは智者の事なる可し。
傅へ言ふ、むかし大饑饉の年、大坂に窮民多くして、其救助の法を得ざりし折柄、時の町奉行某が難波新地に芝
居見世物等の興行を許し、隨て之を奬勵して一時に其地方の繁昌を致せしかば、窮民等は皆これに走りて種々樣
々の業を營み、政府の筋にては一錢を費さずして貧民救助の實を成し、卽ち今の難波新地の諸興行は其舊跡なり
と云ふ。又天保年中、或る藩にて財政頻りに困難して、大坂の金策も意の如くならず。當時執政者の考に、貧を
救ふの道は儉約の外ある可らずとて、藩士竝に領民等へ儉約の令を布き、絹布着用相成らず、酒宴がましき儀相
成らず、絲竹管絃を禁ずるのみならず、冠婚葬祭も單に儀式に止まる可し、萬事質素の御趣意なりとて、巖重に
取締を設け、一藩の士民、恰も喪に居るが如くなりしに、嘗て財政の囘復を見ざるのみか、農商共にますます不
景氣に沈み、遂に如何ともす可らざるに至り、執政等も當惑の餘り、當時藩中に經濟家の名ある士人某氏を召し
て之を謀りければ、氏の言ふやう、財政の困難を救はんとならば、儉約するは奢るに若かず、今日の急に當りて
は速に令を發して儉約の取締を解き、城下は勿論、郡村に至るまでも、芝居諸興行を許し、神事にも佛事にも都
て世の中を賑かにして、始めて困窮を免かる可し云々と説きたるよし。大坂の町奉行と云ひ、此士人と云ひ、實
に學者流の官臭を脱して方略の大膽なる者と云ふ可し。芝居見世物等の興行に於ても、人氣を引立るの功能は斯
の如し。然るに今直接に金錢を受授する富講を許し相場所の法を寛にして、人心を活潑ならしむるに於てをや。
其影響は必ず少々ならざる可し。我輩は此一擧に由て我當路者の膽の大小を卜せんと欲する者なり。