「軍人と人民」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「軍人と人民」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

軍人と人民

凡そ人生百行の中に就て國の爲めに身命を抛つほど高尚なるものはなかる可し今陸海の軍人は平生より國家萬民の爲めに死するの覺悟を極め一旦事あるの日には即ち身を殺して仁を成すの實を行ふものなれば世間一般の敬愛を受るも固より其處なりと云ふ可し左れば何れの國の政府にても軍人をば特別に優待し其勲位恩給等自から他一般の官吏と別にして殊に帝室に近いて屡ば屡ば恩光に接するの榮は獨り軍人に多きが如し而して我國に於ては天皇陛下が國軍の大元帥として親から之を統べさせられ特に之を親愛し給ふは國初よりの遺制にして軍人も亦常に帝室の愛撫を以て無上の恩榮とせざるはなし例へば明治十年西南の役に我國の兵制未だ今日の如くに整はざりしを以て兵員に不足を告げ臨時に有志兵を募集して之に充て幸に騒亂鎮定の功を奏したりしが扨も亂後解兵の始末は古今の通難にして當時亦この事に就き思慮を勞するものも少なからざりしに天皇陛下一日吹上の御苑に於て募集兵を閲覧の上深く其功勞を慰められて解散の御沙汰ありしに幾千の兵士何れも其恩遇の辱けなきに感じ欣々として歸途に就きたるが如き以て皇恩の軍人に及ぶこと尋常ならざるを知る可し然るに顧みて一般の社會が軍人に對する感情を見るに今日の實際如何は暫く措き從來我國民は久しく封建制度の下に養はれ軍事は之を武士の事として全く顧みざりしのみならず當時の兵士たる士族輩が動もすれば武權を濫用して人民を苦しめたる等の事も少なからざるより彼等は一般に兵士を恐れ兼て又軍事を厭ふの情を生じ維新の後に至りても動もすれば徴兵を嫌ふて之を避けんとする者さへあるは即ち封建時代の餘弊なりと云はざるを得ず聞く所に據れば西洋諸國などの風習にては兵役を以て人生榮誉の職と爲し世間一般に之を待遇すること厚くして路傍の婦人小兒に至るまでも軍人とあれば之を敬愛することを知り又彼の交際社會などにても軍服を着して金章燦爛たれば常に上位を占め顔に瘡痕などある者は一層の重きを爲すほどの次第なれば少壮の男子に兵役を避るの念なきのみか自から進んで國の爲めに死せんとする者多しと云ふ然るに今や我國の兵制も一變して兵士は舊時の武士に非ず軍律の下に運動する者にして武權を濫用するなど思ひも寄らざることなれば國民の之に對する情感も大に趣を改めたる折柄、幸なるは今回の陸海軍聯合大演習にして其隊列中に在ては軍人を人民との交通固より嚴禁なる可けれども既に營外に出で至る處の町村宿驛に眠食する以上は其相接するの機會は常に少なからざるのみならず或は演習の事、終りて戒嚴を解き一時兵士の遊散を許すときなどは即ち兵民相接し相見るの好機會にして一般の民情如何は此時にこそ顯はるゝものなれば若しも今回の演習中に斯る折もあらば我輩は我國民が平生より軍人に對する一種温藹の感情を發露し軍人も亦舊時の武士を學んで武權を弄ぶことなかる可しと信ずる者なり之を要するに我國に於ては帝室及び政府にて軍人を優待するは既に事實に於て見る可しと雖も廣く民情の如何を卜するは今回こそ好機會なれば大演習地方は勿論、往來沿道の人民が國家公共の恩人たり保護者たる軍人に對して好意を表するの實際如何は我輩の特に注目する所のものなり