「兵備の足らざるを憾む勿れ」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「兵備の足らざるを憾む勿れ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

兵備の足らざるを憾む勿れ

我輩が前號の紙上に陳べたる如く今度の陸海軍演習は未曾有の大演習にして取分け天皇陛下にも行幸あらせられ親しく統監せらるゝとの御事なれば軍士の奮勵も亦一層なるべく由て以て軍事上の智識を得、軍氣を作興すべきは勿論併せて全國の士風を鼓舞し又威を四隣に示して直接間接の利益を見るべし誠に近來の一大盛事なれば國民は何れも我が軍隊の威勢を喜び我が國權を維持し擴張するの劍楯として重く依頼を置くことならん我輩も亦傍より何となく勇ましきを覺えて赫々たる國光を戴くの心地する者なれども心を静めて倩々世界の大勢を察するときは所謂弱肉強食優勝劣敗の活劇にして今こそ鶏犬相和するの樂天地なれ一朝機を失へば何時如何なる妖氛の充横せんも知る可らず而して其強なるものを數ふれば先づ歐洲の諸大國に指を屈し其弱なるものを擧ぐれば東洋の諸小國なるべし蓋し日本は國小なりと雖も其綱紀制度と云ひ國民の元氣と云ひ自ら東洋出色の譽ありて他の凌侮を甘んずる者に非されども今の戰爭は機械的にして機械の整否大小は即ち強弱勝敗の由て分るゝ所なり假令へ三軍の士氣勃焉として飛騰すと雖も徒手空擧を揮ふて硝彈劍戟に當る可らざること數の爭ひ難き所なれば今若し我が軍備を以て之を彼の英佛獨露諸國と比較するに其相距ること實に少小ならず試に一見したる所にては庶幾くは以て我が國權を維持することを得べき歟なれども更に之を伸張せんとするに至ては我輩の容易に知り得る所にして遺憾ながら世界弱國の地位に立たざるを得ず其然る所以は何處にあるやと推究するに主として軍器の不充分なるに非ざるはなし而して其軍器の不充分なる所以は畢竟民力の窮乏せるが故にあらざるはなし我國の陸海軍は其軍事上の智識と云ひ又報國の忠勇と云ひ決して諸外國に讓るものに非ざること此の知しと雖も唯資力意の如くならざるた爲めに充分の爪牙を磨くこと能はずして未だ國光を煥發するに至らずとすれば愛國の志に富む人民たる者が爭で之を供給するの策なくして可ならんや抑も金の力の偉大なることは今更申す迄もなけれども現に米國の如きは平常軍備に力を用ひずして而も能く其國威を發揚するものは國の資力裕にして國庫常に充實するが故に事あれば何時にても軍艦兵員一切を傭使するに差支なければなり日本今日の現状にては思ひも寄らざる所にして我輩は其甚だ相似ざるに赤面せざるを得ず或は是れは米國の事にして例外とするも金力の効能は彼の香港に於て之を見るべし世人も知る如く同地は曾て英國に略取せられ其領地となりたりしが支那人の堅忍不抜なるや其後追々金を以て香港の地面を買取り今は殆ど支那人の所有に歸して英國は唯その支配權を握るのみなれば恰も支那人は英國の役人を雇入れたる樣のものにて西洋警察の保護は中々に行届きて滿足なり抔氣樂なる事を申居るよし弱兵を以て文明の利器に抗し其戰爭に打負かされて國土を割讓するに至りたるは誠に不面目の極なれども暫く時節の到來を俟ちて其間着々金を以て買戻すとは支那人の腕前天晴れなりと云はざる可らず日本國民は此點に於て果して讓る所なかるべきや外國をして侵すこと能はざらしむるも金の力なり、侵されて後これを回復するも亦金の力なり既に富力の充滿する上は國勢を振作する固より容易なるべきのみ今や歐洲の諸強國は虎視眈々として其眼光を東洋に注がんとせりヂルク氏の前言空しからずして妖雲殺氣漸く東天を覆ふの惧なきに非されば今の我が國民たるものは夜を日に繼いで營利の道を求め陸海の軍備を整頓して之を世界の最鋭となし強國に並列するの工風なかる可らざるは勿論政府に於ても大に勤儉の實を擧げ朝野共々に力を吝む可らざるものなり偶々大演習の盛事を聞くにつけ所感を記すこと爾り