「鐵道株と整理公債證書」
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時事新報に掲載された「鐵道株と整理公債證書」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
鐵道株と整理公債證書
目下商工業社會の惨状は何れにしても政府の筋より救濟の手段を施し一時の急を免かるゝとして扨その後に至り諸會社の運命如何を案ずるに千差萬別の事業に榮えるものもあらん衰ふるものもあらん何れを得とし何れを失とするは人智の及ぶ所にあらざれども世間の財産家にして後世子孫の爲めに家道の安全を謀るには鐵道會社の株主たるに若くものなしと我輩は今日に至るまでも敢て持論を變せざる者なり近年會社熱の流行に從ひ鐵道株も或は投機者の手に落ちて價格の昇降甚だしきものあるが如くなれども元來その性質たるや廣く日本國民を相手にして政事上の治亂に拘はらず人間必要の運輸交通を司どる商賣なれば日本に人の種のあらん限りは鐵道の不用に屬することはなかる可し斯くまでに大丈夫なる營業にてありながら其株主と爲りて利益の配分を取るに心配もなく手數も少なしとあれば其利益は固より多からんことを望む可らず例へば世に財産の堅固なる富豪と稱する家には日常活溌の商業を營む其傍に子孫安全の爲めとて利益の極めて薄きを承知しながら田園を所有する者多し故に今後は鐵道の株式も凡そ此田園の例に倣ひ収入は薄けれども堅固なりとて次第に富豪家の財産と爲り又は其所有に心配少なしとて商機に不案内なる田舎の富豪醫師學者孤兒寡婦などの手に歸することなる可し人心の赴く所斯の如くなるときは鐵道事業に付き何ほどの利益あるも其利益の割合に株式の價を高くして詰り株主に奇利はある可らず既に唯今にても日本鐵道會社の株式は稍や此趣を生じ其價の高き割合に賣買は劇しからずと云ふ即ち鐵道株が投機者の手を離るゝの日にして誠に目出度き商況なれば自今以後之を買ふ者は全く投機の念を絶ち鐵道は利益の割合に價の高きものなり其利益は田畑山林に比して略相同じと雖も唯これを所有するに心配少なしとのみ覺悟して後に大なる失望なかる可し
方今世間に整理公債證書を所有する者多しと雖も我輩の所見にては利益の安全なるものと認るを得ず年五分の利子、既に甚だ低き其上に一旦の機に市塲の變を生ずるときは百圓の價を落して五六十圓に至らしむるは決して珍らしからず先年七分利付の金禄公債證書が六十圓臺に下りたることあり其割合にすれば劇變の際には整理も四十圓臺に下りて下る可らざるものに非ざるを知る可し或は世人の之を所有するは機變を恐れながらも下落の機を見れば直に賣抜けんとの心算ならんかなれども畢竟無益の考たるに過ぎず市價の將さに下落せんとするに臨み人より先きに賣抜けんとするは相撲の打出し、芝居のはねに人より先きに木戸を出でんとするに異ならず滿塲の人心みな同じと雖も千人中の九百九十人は後れざるを得ず故に公債證書下落の時にも能く本直に賣抜る者は千人中の十人にして殘る九百九十人は安直の木戸の内に茫然たる可きのみ斯くまでに明白なる利害にも拘はらず整理公債證書が百圓の價を維持するとは何ぞや自から理由の存するものあり第一諸銀行その他政府に縁ある商人等が種々の事に關して保證を納るに公債證書なれば至極通用宜しくして自家の商賣上に自から利する所あるが故に公債證書その物の價を論ずるに遑あらず間接の利益の爲に高價を以て之を買ふの要用あればなり第二整理公債證書を抵當にすれば日本銀行より金を借用すること易きが故に金融を本務とする銀行又は商人等は五分利の公債證書を抱て不利なるは双露盤上に明白なれども日本銀行の抵當のみを目的にして手元に所有せざるを得ず又これを所有して實際に利益ある其概算を示さんに爰に十萬圓の整理公債を所有すれば五分の利子一箇年に五千圓を得べし迚も割りに合はざることなれども之を抵當にして日本銀行より九萬五千圓を借用し其九萬五千圓を日歩四錢（時としては五錢もあり又時としては三錢もある可し）に貸付れば一年一割四分四厘の利子に當り九萬五千圓に對して一萬三千六百八十圓を得べし之に公債證書の利子五千圓を加ふれば一萬八千六百八十圓なり此内より日本銀行へ借用金九萬五千圓に付年七分の利子六千六百五十圓を拂ひ殘一萬二千零三十圓の手取りたる可し即ち十萬圓の資本に一割二分餘の利子を得るのみならず金融の緩急に從ひ緩なる時は日本銀行に返し急なる時は直に借用す可ければ用意の爲め手元に資金を閑却せしむるの要なし金融上の便利この上もある可らず或は又公債證書の下落するときには危險なるが如くなれども百圓のものを抵當にして九十五圓に通用したることなれば萬一の塲合には五分の損亡と覺悟して其抵當品を日本銀行に處分せしむ可きのみ恐るゝに足らず手取りの利益一萬二千零三十圓の内より五千圓を引去りて損亡に充るも尚ほ七千零三十圓の殘あり當年は不幸にして十萬圓の資本金が七分利に廻はりたりと観念す可きのみ此邊の度胸なくしては金融の商賣は出來ざることゝ知る可し
右は今日金融社會の事情にして理財の才に富む者は整理公債證書を運轉して十分の利益あるが故に其利子の低きにも拘はらず之を百圓の價に買取り遂に時價の勢を成したることなれども前に云へる醫師學者田舎富豪又は舊藩士族の一類孤兒寡婦の輩は金融理財の事情を知らず前年は公債證書に七分の利子を得たれ共今は之を取替へて五分に下りたりと云ふまでにして何等の思案もなく唯大切に五分利の整理公債證書を家に〓るか又は餘財あれば新に買入れ、要用の時には之を賣却して必ず百圓の價ありと信ずる者も多かる可し故に此種族の爲めを謀れば鐵道會社の確實なるものを擇び仮令へ其利益の割合は整理公債の利子に比して厚薄なきも此れと彼れと取替るの工風こそ安全なる可し公債證書は商況の機變に從て忽ち元金を減ずるの恐あれども鐵道の方には先づ以て其掛念少なしと云はざるを得ず況んや長き歳月の間には營業の繁昌に進むことあるも退くことなきは諸外國の實例に照して明なるのみならず新設匆々の我鐵道に於ても之を見る可きに於てをや今日其利益の標準を整理公債證書に取て年五分と覺悟したらんには數年の後には自から望外の仕合もなきにあらざる可し