「火災保險」
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時事新報に掲載された「火災保險」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
火災保險
紅顏白髮もとより常なし人間の壽命は老少不定にしていつ如何なる變事の出來せんも知る可らざるに其脆く果敢なき身の上を以て恰も一家の燈明となり重き責任を負擔するは世間戸主の通例なれば若しも一朝不幸にして其身に無常の事もありては啻に妻子をして路頭に迷はしむるのみか併せて九族にまでも其影響を及ぼすことなきに非ず悔ゆるも詮なき次第なれば平常無事のときに於て覺悟を定むるこそ肝要にして即ち生命保險の世に大切なる所以なり又天災地變その他不慮の出來事多くして爲めに巨萬の貨物財産を沒盡するに至ることあれば常に貨物を取扱ふ商人の如きは海陸運送の都度萬一の變事を懸念して損耗を豫防するの工風なかる可らざるが故に是に於てか海陸保險業の必要あり各種の保險は何れも至極尤もにして危險の度大なれば大なるに隨ひ心ある者の决して忽にす可らざる所なれども扨我國實際の景况を見聞すれば保險の事たる元西洋舶來の新法にして其必要は未だ世人の腦裡に感染すること深からざるにや將又此等會社の基礎を危ぶむに由るものか何分にも充分の發達流行を見るに至らざるは我輩の心竊に惜む所なり
生命及び運送の貨物等に保險を付するの大切なるは固よりなれども火災の用意として財産を保險に托するの要用は又殆んど讓る所なかるべし祝融の猛惡なるや瞬時にして人の財産を燒失し辛苦經營を烏有に歸して更に〓る所なし幸にして他に巨多の餘裕ある者は甚だしき困難に逢ふこともなかるべしと雖も然らざるものは風雨だも猶ほ防ぐ能はざるの慘境に陷ゐる上に俗に云ふ弱目に祟目にて不幸續出遂に一生を埋沒するに至ることさへ少なからず災害の最も慘なるものにして殊に東京は夙に火事を以て著るしく最近數年間を通計するに戸數二十八萬餘の中一年千戸に付七戸半の割合なりといふ餘程■(にすい+「咸」)じたる樣なれども今年以來は四谷、淺草、芝等相〓いて出火し人をして一日も油斷するを得ざらしむるに至れり斯る危險なる府内に住居する者が然らば此有勝ちなる災害に備へんが爲め如何なる用意をなしつつあるやと云ふに警視廳及び消防夫に依頼するの外他に財産に保險を付して安固を求むる者は至て稀なるが如し現に東京火災保險會社にて契約せる保險の件數は未だ五百内外に過ぎずといふ誠に寥寥たるものにして此一事を見ても市民が火災保險の必要を顧みざるの程度を卜するに足るべし蓋し保險を付するは主として萬一不幸の際の損失を救はんが爲めなれども此保險ある以上は災害ありとて格別疑懼するを要せざることなれば平生に於て既に安心を買ふの代價たり安心は無形に存するの快樂なるが故に人動もすれば有形の財貨を投じて之を買ふを懶しとするが如くなれども苟も事理を解する者は其價の寧ろ貴きを知るなるべし今夫れ尋常家屋の火災を保險する其相塲は百圓に付一年凡そ二圓に充たず千圓としては十五六圓にて事足るべきに此少額の金を惜んで一年の安心を求めざるは何事ぞや唯自身の覺悟如何にあることにて平素十二分の散財を愼しむときは一年中に十餘圓を節約すること敢て甚だ難きにあらず畢竟能はざるに非ず爲さざるの弊にして文明東〓の今日而も日本の首府に於て安心を買ふの代價を知らざること此の如しとは我輩は其酷だ古人に似たるを怪むものなり〓ふに世界萬國中保險の爲めに金を投ずることの多きは英國人に如くはなし葢し其氣質の然らしむる所にして勤儉着實平生の覺悟最も立派なるが故に保險の必要を感ずることも亦最も深く由て以て彼の富榮と安全の幸福を享受することなるべし左れば若しも彼の英國人をして曾て保險をも付せざる東京神田區邊の有樣を視察せしめたらば果して如何なる感想を惹起すべきや正に焦熱地獄にあるの思ひをなすことならん
熟熟道理と實例との兩面に照して接するに能く勤儉着實の氣質に富むものは又能く保險の必要を感ずるものの如し日本人民が保險の必要を感すること深からざる所以は未だ世に此方法あるを知らざるに由るものか或は會社の基礎を危ぶむに由るものか是れも多少の關係あることならん歟なれども我輩を以て見るに勤儉着實の氣質に乏しきも亦與りて大に力ある事ならんと信するなり日本人は勤儉着實の氣質に乏し然らば冒險敢爲の氣象に富む者なるやと云ふに是れ亦决して然りと答ふること能はず英國人は勤儉着實の氣質に富む然らば冒險敢爲の氣象に乏しきやと云ふに却て英人の特色長所なりといふ而して兩國の富を計算するに實に霄壤啻ならざるの相違ありとすれば我輩は先づ國民の氣質如何に向て訴ふる所なき能はず、保險の一事微細なりと雖も英國の國情を羨む我が國人は深く演繹して省みる所あらんこと希望するの餘一言ここに及びたるのみ