「商業上の國是、英吉利の事例」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「商業上の國是、英吉利の事例」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

商業上の國是、英吉利の事例

我日本國にては商業立國と覺悟して我開港塲を東洋貿易の中心と爲さざる可らずとして先づ其地理は如何と云ふに歐洲文明の國國とは一萬英里内外の遠路を隔て近時汽船の迅速を以てするも尚一箇月半を片道に費すやうの次第にして此一點に於ては大に失望せざるを得ずと雖も近く亞細亞大陸に接して西南、南洋群嶋と濠洲を去ること遠からずパナマ運河は一昨年末財用不給の故を以て一事工事を中止したれども巨萬の資本を費して成功旦夕に迫りながら永く打ち棄て置く可きにも非ざれば早晩調度の法を得てレセツプ氏の初志を果す者あるは數の觀やすき所にして今後一日同運河の成業を告ぐることもあらば米國の東岸より又歐洲諸國より運河を通りて太平洋に出で東洋に來航する船舶は順路我國に立ち寄らざるを得ず特に濠洲の如きは新開將盛の地方にして徃時英國の或る學者は英國の狹小にして且つ不陽氣なるを以て行く行く國を濠洲に遷す可し云云の説を爲したる程にして有識先見の士は望を濠洲に屬すること大なれども其位置の我れと通商するに便なるこそ幸福なれ今後一層兩間の交通を盛にし商賣上の友國として互に相結托すれば雙方共に利すること决して少なからざる可し斯くて我國を中心として北西、露國朝鮮より支那の東岸に線を引き西南は濠洲南洋諸嶋、又東南は南亞米利加、夫れより北米合衆國、漸く北して加那太領に掛け往來便利の〓線を引くときは周圍の貿易線は中央なる我日本國に集まりて宛然貿易の中心たるを得べく且つ又歐洲諸國へは距離固より近からざれども爰に貿易上より見て大に頼む可きものありと申すは我國は東洋の極處にして歐洲より來東する商船は其最終點として我國を目指す者多きが故に其距離に割合はして貨物の運賃少なきこと是れなし今英國より海峽殖民地(新嘉坡一帶の地を指す)支那日本通ひの汽船運賃表を見るに日本と英國との地理距隔は最も大なるにも拘はらず運賃は海峽殖民地並に香港上海等と同樣にして割合に便利を得るものと云ふ可し左れば我日本國は其地理上に於ては東洋貿易の中心たるに相當する者にして扨て愈愈中心たらんとすれば之れに適する丈けの凖備を爲さざる可らず即ち〓塲を改築して如何なる大船も棧橋に寄りて輕便に荷物を陸上することを得せしめ又倉敷の安直にして且つ安全なる倉庫を設け船渠も充分に整ふて船の修繕に便利を與へ東洋を通行する商船が商賣上の計算に於て自然日本に輻輳するやう夫れ夫れの道具立を用意せざる可らず扨その道具立の一項として築港の事を擧けんに我國を東洋貿易の中心たらしめんとするの覺悟を以て豫め此中心塲を撰み英國にて倫敦リヴアプールと云ふが如く廣大なる貿易事業を容れて差支なきやうの塲所を定ざる可らず今日の處にては横濱神戸の二港塲、東京大坂に接近するの故を以て五港中最盛の勢を呈すれとも神戸と云ひ横濱と云ひ後來大規模の貿易事業を容るるに適するの地なる可きや我國開港の當初には攘夷の議論喧しくして物情穩ならざるが爲め東京大坂を打ち開て居留地開港塲と爲すこと能はず即ち神戸村横濱村を以て一時其塲を間に合せたることならんと雖も時と金とを費して今後此兩府に築港し横濱と云はず神戸と云はず東京大坂を以て東洋貿易の要港と爲すこと能はざる可きや政府は米國より返還したる下ノ關償金七十萬圓を以て横濱築港費を補助する由なれば東京灣築港の事は全く之を斷念して横濱を大港塲と爲すの意なるや凡そ築港論の如き實地土工家の測定を經て始めて其利害を論ず可き者にして何の處を以て永久の貿易中心塲と爲す可きや其は當局者の研究に任じ兎に角大規摸の築港は一朝一夕の辨ず可き所に非ざれば政府は十分の調査を盡して明に其方向を指示し且つ其着手の順序を定めて十年に成らざれば二十年、二十年に成らざれば三十年、氣根強く初案を追て之を成就するの覺悟專要なる可し若しも然らず漠然として永世の貿易塲を定めず横濱築港の議ある傍に時として東京灣築港の説あり或は更に大坂築港を談ずる者ある等姑息曖昧の間に過ぎ去らば人人今の開港塲を以て一時の假住地と見做し所謂臀の落附かざる姿にて土地に公共の事業も起らず港塲改良の爲めに謀りて不利の大なるものと云ふ可きなり左れば我が政府にても速に其調査を盡して東京大坂は果して築港の地ならざるを知らば其理由を告示して後來横濱神戸等を我が貿易の中心塲と爲し隨て其中心塲たるの凖備を爲さざる可らず斯くて中心塲一定して築港の計畫も行き屆きたらば廣く萬國の船舶を引き寄せ之れに搭載する各種の貨物は一旦我が港塲を經て夫れより四方に散ずるやう種種の便法を設けざる可らず試に英國の事例を按ずるに目下世界貿易の中心たるリヴアプール港の如き港内を通ずるメルシー河は潮流頗る急激にして其干滿に因り水面凡そ三十英尺の高低を爲すが爲め船舶は安んじて港内に入ることを得ず是に於てか港民は種種の工風を廻らして築港の實を擧げんとし千八百七年府會は船渠建築の議を决して英國國會の實地調査を請求し國會にてはトーマス ステールス氏を擧げて其調査委員を爲したりしが氏は實地■(てへん+「檢」の右側)分の上、廣大なる船渠を作り中を〓港の如くして滿潮の時には水門を開て船を其中に出入せしめ干潮前に門を閉ぢて船の碇泊を安全にすることを可とし遂に其方案を實行して千八百十五年に第一船渠を作りたるもの即ち彼の大船渠の濫觴にして爾來今日に至るまで船渠の爲めに費したる所は一億六千六百五十萬圓餘なりと云ふ又彼の造船を以て有名なるグラスゴー府の如きも府内に横はるクライド河は今より五六十年前には幅百八十英尺深さ三英尺ばかりなりしに爾後千三百餘萬圓を費して今日は深さ二十英尺、幅四百五十英尺と爲し如何なる大船も入港して安んじて碇泊することを得るに至れり何れも英人が堅忍持久、其の商業上の國是も確定して思ひ出さずに忘れずに次第次第に手を盡して三尺潺潺の小流を變じて一大港と爲すの氣根あるが爲めにして今日英國が良港を有して世界の船舶を集むと云ふ其所謂良港は决して天然の良港に非ず數十年の人力を盡し始めて成就したる良港にして其世界貿易の中心たるは天然地理の便利與りて大に力ありと雖も抑も亦その國民の剛邁不撓、身を以て百難を排するの勇氣あるに因らずんばあらず未だ人事を盡さずして徒に天を尤むるが如き英人の爲さざる所、又我輩の取らざる所なれば我國に於ても今日に及んで商業上確乎不拔の國是を定め後人をして據てますます其規摸を廣めしむるの基礎を立てざる可らざるなり