「米國直輸出生絲論 二」

last updated: 2019-11-24

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時事新報に掲載された「米國直輸出生絲論 二」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

我生絲は米國を常得意と定む可し

生絲は我國第一等の物産にして百年富國の計を案すれば年年内に其産額を増加すると同時に歳歳外に其販路を開拓し世界生絲の需要者を一手に引き受くるの氣概なかる可らず即ち此生絲の得意先きを求むるに就ては歐洲と云ひ米國と云ひ其處を好惡するの謂れなく殊に歐洲諸國へ向け我生絲を輸出したるは開國後、間もなき事にして取引の年所多きに隨ひ需要の區域も相應に廣く今後ますます其區域を廣めんと勉強せざる可らざること勿論なれども抑も歐洲大陸は大小邦土犬牙して國力平均の關係より動もすれば兵を境上に集め戰雲飛揚して殺氣慘澹たること毎度なるが故に外交政略の抑揚は忽ち商賣上の活機に響き眞實戰端を開くが爲めのみならず某國帝と某國帝が會見したりと云ひ某國の宰相が云云の演説を爲したりと云ひ是より以下瑣末の事に至るまで揣摩憶測の種となり取り止めもなき風説に因りて物價の浮沈を致すこと珍らしからず特に彼の絹織物の如き華奢品は鋭敏に影響を蒙り易く同時の生絲相塲を動かして一上一下、商賣上の定則に從はず爲めに生絲の商法をして一種の投機業たらしむるは自から是れ歐洲の風勢にして生絲製産者たる日本人より見れば歐洲の市塲は云はば亂雜不定にして非常に儲かることあれば又非常に存することあり損益を天に任ずる者にして誠に不安心なれども米國に至りては則ち然らず本來米國は商業を以て立國の主義と爲すのみならず國交際の面倒なる歐洲地方と程隔りて外交略の抑揚も大西洋を横りて來らず且つ其絹織物の如き自國の需要に應ずるが爲め自國にて製造する者なれば國中に大變亂を見ざる限りは其相塲の一上一下、何れも商賣上の定則に由り市塲自から穩にして我生絲商人も此市塲に向ては安心して賣込を爲すことを得べし且つ米國の織物業は近年著しく進歩して初めより之れと縁故ある我生絲の輸出額も亦此一方に向て増加し前十年間を回顧して日本生絲の海外輸出は大に増加したりと云へど其増加は米國向きのみにして歐洲向きの我生絲は十年一日の如く殆んど進歩なしと云ふも可ならん今横濱外國人商法會議所の調査に據るに明治九年度より同二十二年度まで歐洲並に米國へ輸出したる我生絲の仕譯表は左の如し

年  度     歐  洲   米  國

一千八百七十六年

明 治  九 年  二一、〇六七    一五〇

一千八百七十七年

明 治  十 年  二〇、六一三  一、四一一

一千八百七十八年

明 治  十一年  一六、〇五七  三、二〇〇

一千八百七十九年

明 治  十二年  一二、七二二  五、一七五

一千八百八十年

明 治  十三年  一六、九六三  五、三七六

一千八百八十一年

明 治  十四年  一四、七五四  七、〇二二

一千八百八十二年

明 治  十五年  一九、一四五  九、五八九

一千八百八十三年

明 治  十六年  二〇、一二四  九、七八〓

一千八百八十四年

明 治  十七年  一四、二六〇 一一、一四三

一千八百八十五年

明 治  十八年  一〇、八五〇 一五、〇三四

一千八百八十六年

明 治  十九年  一二、三六九 一四、〇〇二

一千八百八十七年

明 治  廿 年  一七、九九四 二〇、九六四

一千八百八十八年

明 治  廿一年  二一、三四三 一九、九二〇

六月ヨリ七月迄

一千八百八十九年

明 治  廿二年  一二、五〇一 一五、一二二

七月ヨリ十二月迄

右の次第なるが故に我生絲商人は機業の進歩著しくして市塲の模樣穩かなる米國を以て常得意とし永遠取引の根本を先つ此處に打ち立て夫より歐洲諸國を始め枝葉の隅隅に手を廣げ世界生絲の需要者を一手に引き受けんとするの手段を盡すこと商賣の順序に於て然る可きものならん然るに近來米國の生絲市塲を見るに歐洲並に支那絲は漸く我勁敵ならんとし我れ若し油斷して虚を示さば彼れ直に之れを擣かんとするの状勢なきに非ず回顧すれば明治十四年の末なり横濱聯合荷預所と居留外國商人との葛藤あり一時我生絲の輸出を止めたることありしが米國の機屋は當時日本絲の供給を絶たれて已むを得ず歐洲絲を購入し以て其塲を間に合はする中、凡そ機屋の習慣として一種の絲を使用し慣るれば他と變更するを好まざるの風あるが故に彼の葛藤の後今日に至る迄上等絲は常に歐洲産に制せられ我生絲の販賣上毎度困難を感ずるに至りたるのみならず先年伊佛間に不和を生じて佛國は伊太利の生絲に對し重き關税を課したるを以て同國生絲商人は其販路を米國に開かんと勉強すること大方ならず之れが爲めにや前號の紙上に■(てへん+「曷」載したる一表中にも明白なるが如く明治二十一年度より米國輸入の歐洲絲は俄に一千俵前後の増加を致せり扨て又支那絲は如何と云ふに絲質は天下第一流にして光澤強力、他に其比を見ずと雖も從來其製法は手繰りにして之を織物に使用すること能はざるが故に十餘年來一日の如く絲に一歩の改良なければ輸出にも亦増加なくして兩三年前まで引き續きたりしが近頃彼の生絲家も少しく悟る所ある者の如く製絲に機械を用ひ始めたるに果して米國人の需要に適し伊太利絲と同樣に俄に其輸出額を加ふることとは爲れり即ち米國の市塲には歐洲並に支那絲ありて我生絲と競爭せんとするの勢あるが故に我生絲商人は决して安閑たる可らず先つ我常得意たる可き彼の生絲市塲の景况を審かにして賣込上に將た製絲上に十分の改良方案を導き他の生絲取引の未だ繁茂せざるに及んで早く我取引の根本を定め使用鬱然他を蔽ふて其成長を許さざるの覺悟なかる可らざるなり