「炭田借區に附き農商務省に所望あり」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「炭田借區に附き農商務省に所望あり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

炭田借區に附き農商務省に所望あり

今を去ること數年前までは我石炭採掘業も至て微微たりし者にして當時採掘に從事したる者は高嶋、三池、唐津等僅僅數箇所に過ぎざりしが三五年來國内諸工業會社の發起あり隨て石炭の必要を感ぜしかば九州各地に北海道に若くは常磐地方に於て萬年知己なかりし炭脉を爭ふて三顧するもの多く臥龍を其手に入れんとして互に競爭を開きたる其極、彼の石炭熱を生ずるの塲合とは爲りたり抑も工業の國に於て石炭は日常必需品にして生産費用の多少の如きも重もに其價の高低に關する者あるが故に國の工業を發達せんと欲せば採炭業者に其人を得て鑛利を空うせしめざるの工風なかる可らず即ち農商務省に於て或る地方の炭田借區を許さんとすれば先つ其借區出願人が先占の實を盡したるや其實を盡すに附き凡そ何程の費用勞力を要したるや將た此出願人に鑛業上の經驗若くは資力ありや此兩者を併有するや或は其一を偏有するや眞實自から鑛業に當りて之れに着手するの所存ありや凡そ此邊の事情に附き十分見込ある者を得て始めて借區を許可するは鑛利を重んずるの精神に於て甚だ肝要の事にして農商務省にても曾て一時此精神を守りたることありと云ひ國の鑛業を重んずるには是非とも斯くある可き筈なれども斯くては借區出願に失意したる者が政府の借區人鑑定方に依怙の沙汰あり云云などとて種種の苦情を言ひ出し以て其不平を漏すことあらん是れも頗る面倒なりとて近頃農商務省にては必ずしも借區人の性質を問はず代言人にても政治家にても或は薄資の書生輩にても其炭田先占の系圖を作り法律上先計畫者の證跡あれば他に資力經驗あり眞實鑛業に從事す可き者ありて其先占の點に於ては更に相讓る所なきも一方の文書類が代言人流に出來て一方が實業者丈けに却て手拔けの廉などあれば初めより人の性質を問はず實業者の身分人柄に因りて一〓の重きを置かざるものの如し是に於てか炭田地方に借區競爭の惡弊を生じ九州各地中に就き豊前田川郡の如き先般來競爭の甚しきに因り土地に一時の浮利を生じて人氣の輕薄に流るるを附込み經驗實力を兼具せ〓〓〓の借區出願人が今や出願の手續を爲し居れりと聞けば俗に所謂彌次馬連が幾名となく入り込みて村民に〓ましむるに利を以てし種種の文書に調印を求め或は權利を僞造して他人が幾多の計畫費を抛ち將に出願せんとする其矢先に厚かましくも競願を試み代言流の口實を以て幸に借區の許可を得れば巳れ自から起業するに非ずして之を他人に賣り渡し買ひたる者も亦之を轉賣して其間の仲買手數料を取り此手數料を資本として更に他の競願を試み不整頓なる裁判法の下に健訟の弊風を生ずると一般、如何に他の先占權が分明にして其事情に明なる人は斷じて疑はざる塲合にても尚競爭を試みて萬一を僥倖せざるこそ馬鹿者なれとて群鴉の塊肉に集るが如く四方八方より我れ勝ちに之を啄き廻はすに隨ひ眞實その塊肉の發見者は何時の間にか他と混同せらるるの塲合もなきに非ず左れども先發見者は之を發見するまでに技師を雇ひ測量を試み或は村民と契約する等既に創業費を抛ちて今更他の爭奪に任ずるは固より忍びざる所なるが故に更に無益の財を投じて益益その創業費を増し結局採炭に着手する者が其費用を引受けて爲めに大に鑛業費を増加し隨て石炭の價を高め亦隨て諸工業の原費を加へて其工業の發達を妨ぐるは勿論、是れより以下影響の及ぶ所は殆んど際限を見ず之を國の永遠損耗と稱するも可ならん畢竟その原因を究むれば我農商務省に於て炭田借區人の性質を問はず代言流の口實文書を目當てにして實際起業の力なく又其念もなき者に國家工業の源泉たる炭田の借區を許可する等鑛利保全の精神を重んぜざる所あるが爲めならんなれば近近改正の噂ある彼の鑛山條例中にも充分に此精神を含蓄し更に其條目を明にし此流の競願者を見出したらば政府は國の工業の爲めに成る可く經驗資力ありて眞實採炭業の實を擧ぐ可き者に對して鑛利を空うせざるやう條例を根據にして堅く執る所なかる可らず彼の競願失意の者等が政府の筋に依怙の沙汰ありと稱して不平苦情もあらんとて其邊の嫌疑を避けんが爲めに炭田借區に人を撰む能はざるが如き何んぞ其れ遠慮の甚だしきや公平正道の人が國家の爲めに事を謀るに何んぞ失意者の不平を問はん斷じて其善とし信ずる所を行ふて聊か憚る所なかる可きものなり