「蓋ぞ之を内に求めざる」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「蓋ぞ之を内に求めざる」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

蓋ぞ之を内に求めざる

人の世を渡るは猶ほ海を渡るが如し時としては風波險惡覆沒の患さへなきにあらず幸にし

て海上無事なるも其艱難困苦は一方ならずして之が爲めに心身を勞すること幾許なるや知

る可らず盖し人の心身の力は限あるものにして之を勞すること甚しければ又之を慰むるの

方便なかる可らず即ち人生に遊娯歡樂の欠く可らざる所以にして其手段も少なからざる事

なれども我輩は今の世俗に行はるゝ遊歡の方法に就て不同意を表する者なり蓋し遊歡は

人々の嗜好に連れ又その階級に隨て各々異ならざるを得ず千金一擲の豪奢も富豪の家に於

ては以て豪とするに足らず濁酒三杯の消遣甚だ殺風景なるが如しと雖も之を以て無上の樂

となす者もなきにあらず人樣々の世の中なれども凡そ人として家を持ぬものはなく家に妻

子のあらざるものは少なし左れば日の夕、戸外の事を終り家に歸りて恙なき妻子の顔を詠

め他愛もなき兒女の戯るゝを見ては何人と雖も之に接して笑顔を開き思はず其心身の勞を

忘れざるを得ず况して其人の私德欠くる所なくして一家の中絶えて風波の沙汰を聞かず家

族團欒の樂、圓滿なるに於てをや其愉快云ふ可らざるものあらん而して此樂や貴賤貧富共

に之を同ふし恰も人間社會の自然に備はり自然に授けられたる所の主樂にして黄金にも珠

玉にも易ふ可らざる寶にてありながら其價甚だ安しと雖も唯その人の私德修まらざる家族

に於ては之を受ること能はざるのみ社會の風浪甚だ險惡にして人生の世渡良に苦し而して

其苦を慰めんとするには固より歡樂の手段なかる可らず然るに今の世人は偏に之を外に求

むるに急なるよりして内を顧るに遑あらざるか、甚だしきは流連放逸、反るを忘れ家を外

にして家人の心を悼ましむるのみならず自身も次第に品位を卑ふして竊に世間の賤しむ所

と爲り身を終るまで眞成の快樂を知らずして一生を空ふする者なきに非ず誠に哀む可きの

み世上の士人眞に心身安樂の地を得んと欲せば盍ぞ顧みて之を家庭の中に求めざる