「論爭の順序」
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時事新報に掲載された「論爭の順序」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
論爭の順序
衆議院の議事は如何の景况なるべきやとは尋常私席の間にも能く聞く所の問題にして或人
の考に近來黨派の競爭甚だしき折柄その黨派が一堂に集會して相互に論難駁撃するに當り
能く公平の道理を通用せしめて不都合なかる可きやと疑ふ者あれば又一方の説に今度の國
會には政權を渇望して議論を好む士族者流が必定議員の多數を占むべきが故に現政府に對
するの論鋒は着實なるべきや否やとて掛念する者あり彼の黨派爭論の事に付ては我輩は去
る頃(五月五日)の紙上に於て政黨以外の政黨と題し黨派の爭をして其弊を逞うせしめざ
るには從來何黨派の肩書なき中立の議員が中間に立て中正を守り自由黨にも倚らず改進黨
にも偏せず唯當不當、正不正を吟味して彼れ當を得れば彼れを助け、是れ正に中れば是れ
を友とし、一團中立の力能く黨爭を左右するの組織を定むるこそ妙ならんと陳べたりしが
今爰に現政府に對するの論鋒如何に就ては我輩は衆議院の議員たる者が議論の通過し易き
ものと、通過し難きものとを區別し、易きを先にし、難きを後にするの心得あらんことを
勸告するものなり顧ふに日本の代議制度は世界無雙の事情よりして極めて速成したるもの
なれば内情を解せざる外國人などより之を見れば民間、大に政治の思想を發達して民權の
勢力溢れんとするの有樣なるよりして政府は舊株を維持すること能はず止むを得ずして其
政權の一部分を圓滑に割與したることならんと想像するもあるべき歟なれども政府の實力
は决して微弱なるにあらず又熱心なる政論家の數も固より全國一般と云ふに非ざるが故に
政府が民間の議論を鎮壓せんとすれば甚だ容易なりと雖も其實は政府部内の内情よりして
遂に今日あるに至りしことなれば人民は幸に參政の權を得たればとて其勢に乘じて一蹴直
ちに千丈の高きに登らんとするも中々に叶ふ可らず政府は唯政權の一部分を割愛したるの
み固有の實力を棄てたるに非ざれば民間快活の政論も容易に實効を奏す可きに非ず唯當さ
に樣々に歩を進む可きのみ即ち今日の時勢なり勿論我輩とても現在の有樣を以て永く滿足
すべしと云ふにあらず代議政體は名實ともに代議政體たらんことを希望する者なれども其
これを實行するや自ら先後の順序なかる可らず我輩が前に議論の通過し易きものと通過し
難きものとを鑑別すること肝要なりと云ひしは即ち此意に外ならずして今試に想像を描け
ば議員が議塲に出づると早々先づ大體上より國會の基礎を完全ならしめんとして第一問題
に憲法論を呈出し法理に問ひ學説に訴へて飽まで之を論爭するが如きあらんには我輩は其
折合の圓滑ならずして百害惡の生ずるを先見するものなり元來國會の權力なるものは法文
の如何によりて定まるよりも寧ろ實力の如何に由ることは之を歴史に徴するも明白なる次
第にして英國の國會法の如きは殆んど不文に屬すれども猶ほ能く其實効を奏し獨逸の如き
は文章整然たれどもビスマークの一喝以て國會を震動せしむるの常なりと云ふ之を兵法に
喩ふるに法文に重きを置くものは地利を先にするが如く實力を主とするものは人和を專一
とするが如し古今の戰爭に人和なければ地利も用を爲さずとの明證あれば實力に先ちて法
文を論するの無用なるも亦明に見るべし世間に議論する憲法第六十七條の如きも(其解釋
は何れにもせよ)全く衆議院に議權なきにあらず唯政府の同意を要するのみなるが故に事
項により評議せんと欲するものあらば宜しく政府の同意を求むべし政府若し之に同意する
を欲せずして飽までも法文を楯にせんとするときは假令へ此條を修正するを得るも政府は
又能く不認可權を利用するを得べし一條又一條殆んど際限ある可らずして要は實力の如何
を顧みるのみ蓋し法文の働きは狹く實力の働きは廣ければなり然るを今の政論者が國會出
席の勢に乘じ取敢へず法文を云々して國會の基礎を完全ならしめんと欲するに於ては爰に
直ちに難澁を釀して恰も平地に波瀾を起すの觀あるべし波瀾を起すは猶ほ可なり之が爲め
に當然議し得べき所をも併せて失ひ盡し一も取らず二も取らず却て前途を誤まるに至んの
み失計の甚だしきものと云ふ可し然りと雖も衆議院が成るべく實力を以て進み濫に完全を
求むるに鋭ならざると共に政府に於ても充分に事情を洞察し法文を度外に置て所謂政治上
の德義を守るこそ國の爲め又政府の爲めに得策なる可けれ若しも然らずして外面に代議の
制度をゆるして内實に議會の權限を殺ぎ以て文明政道の虚觀を裝はんとすることもあらば
我輩の筆法も亦必らず一變することある可きのみ