「農商務省の省是を定む可し(前號の續)」

last updated: 2019-11-24

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時事新報に掲載された「農商務省の省是を定む可し(前號の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

農商務省は長官の交迭頻繁にして省是常に定まらず或は事務を繁くして徒に多くの勞費を要し或は時に新條例を發して實業社會を驚かし或は之れに干渉して其獨立を妨ぐる等我輩の眼に映じて見苦しきもの少なからず左れば斷然之を廢して斯かる省なき昔日に立ち返らんか或は大に改革して無類有用の一省と爲さんか今日の計、二者その一に居らざる可らず凡そ事を處分するの常法は之を消極積極に分ち進んで擴張する積極的に出でんか退て手を縮める積極的に由らんか進退何れをか撰む可き筈にして農商務省の處分に就ても先づ此方法を講せざる可らざれども消極と云ひ積極と云ひ從來有りの儘の農商務省を其儘にして伸縮するのみにては弊根病状舊の如く唯その患部の面積を伸縮するに過ぎざる可きのみ左れば今農商務省を改革せんとするに當り其方法を消極積極の二樣に分ちて有りの儘の事務を伸縮するのみにては所謂五十歩百歩にして其實効を見ざる可きが故に改革の必要ある今日に當りて爰に斷然省是を定め農商務省は農商工業を勸るの省たらずして之を護るの省たらざる可らず即ち農商工業に就き斯く斯くすれば收穫を多くす可し、云云すれば商賣繁昌して工業進歩す可しなどとて事細く世話を燒き手を引て之を導くが如き奬勵法を用いず利を興すは人民銘銘の利益心に任じて傍より之を妨ぐることなく唯政府の政策に於て若くは民間の事業に於て農商工業の發達を害するやうの事あらば常に其情實に着目して盡心極力獨立不偏の考を以て其害を防ぎ其利を通ずるの道を開くことを期す可し盖し實業に從事する者は局處の利害に明かなれども其平常直接せざる大體の事務に通達して着眼の鋭敏なるを望む可らず然るに今實業社會を實業家の自から經營するに任せ政府直接に手を下して興利の策を勸めざるに至らば銘策奇案も隨て■(にすい+「咸」)じ實業家自身に作りたる輿論は政府勸業部の理論に比して其平凖■((「黒」の旧字体のれんがなし+「占」)+れんが)の低きこと固より言を待たざれども其低きは實業社會の自然に低きが爲めにして低き社會に高き議論は徒に事を繁くするに過ぎず從來農商務省にては農林學者と云ひ獸醫學士と云ひ高尚なる議論家を養成して實業家を誘導せしめんと勉めたるが如くなれども農學者の雄蕋雌蕋論は實際老農を感ぜしむるに足らず獸醫學士の馬病論は多年經驗ある馬口勞をして窃に噴飯せしむるが如きことありて學者は實業家を眼鏡越しに睨付け實業家は學者を迂濶なりとして常に敬して之を遠け兩兩相對して何分折合の附き難きは今日の實際に於て然るものの如し然るに今此學者流の人が腦中一種の樓閣を■(「畫」の上部+下部はかんにょうの中に「田」)きて學理を實業に當て嵌めんとし事細く指圖する其中には地味氣候をも察せずして熱帶の植物を我國に移植し勸業の實を擧けたりなど心得るものもなきに非ず或は商工業上に關して人情習慣の斟酌なく西洋諸國に行はるる法律文を飜譯して直に之を條例と爲し水面に■(くちへん+「僉」)■(くちへん+「禺」)する群魚の上よりバサリと投網を下すが如く一時に之を發布するが故に人民は法網中の魚と爲り所謂八方塞りにて進退當惑するが如き事情あるは毎度珍らしからざるなり斯くて政府が條例を以て或は又奬勵法を以て農商工を追ひ廻はし其指圖に從つて心にもなき働を爲さしむるも猿廻しが猿を使ふが如く其猿たる者の迷惑は暫く置き事事所謂猿眞似にして眞の働は出來ざる可し左れば農商務省にても今後は勸業の念を絶ち實業家の一念發起して自から爲すが儘に任じ夫れも行屆かず是れも發達せずなどとて又候干渉の手を出さざるやう堅固に省是を定めざる可らず斯くて農商務省にて堅く勸業の手を封じ農商工業總べて人民の自營に任することとも爲らば干渉より放任に移るの際に事物の外觀、一時退歩の容體を呈するやも知る可らざれども是れは彼の鉢植の樹木を更に大地に植え換へるの際に一時凋衰の色を現はすと一般、深く根を人民の自力に托して漸次その氣勢を得るの日に至らば根底頗る堅固にして風霜烈日にも耐ふることを得べし即ち農商務省にて民業自興の道を開くは實に今日の急務にして之れに處するは唯其勸業の手を袖にして無爲を守るの一策あるのみ斯くて勸業興利に就ては毫も喙を容れざるに引き替へ農商工業の不利と爲り又妨害と爲るものに就ては其事の政府に出づると又民間に起るとに論なく常に農工商を代表して之れが爲めに代言し又之れが爲めに辨護し寸毫の利害をも爭ふて假借依怙する所なく農商務省をして農商工の利害を代表し又之を護衛するの特色を呈せしむること最も肝要なる可きなり (未完)