「農商務省の省是を定む可し(前號の續)」
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時事新報に掲載された「農商務省の省是を定む可し(前號の續)」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
今後農商務省にては其省是を一定し勸業興利を人民に任じて毫も喙を容れざるに引き替へ農商工業の不利とと爲り又妨害と爲るものに就ては其事の政府に出づると又民間に起るとに論なく農商工の爲めに謀りて其利害の所在を究め寸毫の得失をも爭ふて聊か假借する所なく農商工を代表し其利害を護衛するを以て農商務省の特色と爲さざる可らざれども今事の實際に當りて之を實行に現はさんと欲せば農商務省を政府中一種獨立の省と爲し政府にも附かず人民にも附かず屹然この兩間に立て農商工業者の干城と爲り此三業に關係する政府の一擧一動は脇目をふらず注視して苟くも三業に不利あるを見れば極言盡力之を排除することを勉めざる可らず例へば大藏省に於て後來發布せんとする新税法に就き或は現今の税則にても清酒税の如き菓子税の如き苦情多端なる者に就ては其都度情状を穿鑿して實際當業者の迷惑となるものあらば正正堂堂の陣を以て進んで之を救正せざる可らず特に收税の時期等は僅僅一箇月乃至半箇月の遲速にても其實業家の營業上若くは會計上に於て言ふ可らざる不便を生ずることあるが故に凡そ此邊の情實に就ては平常十分に研究し置きて農商工の頭上に不便不利の差掛るに際し一大大厦の覆へるを支へて斯民の安危を繋かざる可らず平たく政府内の情實を云えば陸海軍省は其軍備を盛んにせんとして成る可く費額を多くせんとし外務省は外交の爲め文部省は學事の爲め其他各各受持の事務に多くの金を支出して其事務の擧らんことを欲せざるものなく隨て財政の本源たる彼の大藏省に於ても此等の需要に應ぜんとして租税を賦課し又之を徴收するの手加■(にすい+「咸」)に寛嚴度を失するの塲合なしと云ふ可らず人人己れの爲にするは今の浮世の人情にして是れ亦免る可らざる次第なるが故に此〓ぞ即ち農商務省の職分、彼の租税の賦課法等に於て何なり農商工の不利と爲り又妨害と爲るものあらば爲に代言の勞を辭せず充分利害を辨析して其不利妨害を斷絶し或は之れを■(にすい+「咸」)少するの覺悟なかる可らず我農商務省にては既往の實驗を顧みて果して此種の職分を盡くし得たりと信ずるものあるやなきや彼のブールス法の如き實際に行ふ可らざるものを發して舊相塲所を顛覆せんとするものにして商民の利益を害し其私有權を犯すこと之より甚だしきはなし故に斯る新法が政府中の他の部分より發せんとすることもあらば農商務省は力を盡して防禦にこそ忙はしくす可き筈なるに實際は之に反しブールスの出處は農商務省にして其防禦は扨置き却て主張者の位地に在りと云ふ實に驚入たる次第にして我輩を以て見れば同省の働は主客處を易へたるものと云ふの外なし然るに近來空谷の足音とも評する可き一報を聞くに我摺附木の支那輸出は年年増加の勢を呈し赤燐マツチ即ち安全摺附木の方は外國并に支那製品を壓倒して今や市塲の全權を握りたるが故に尚ほ此上にも彼の地方にて使用する黄燐マツチ(疊の縁などを摩りて火を發する者)を輸出して其市塲をも制するに至らば廣大なる支那のマツチ市塲は總べて日本商の手に歸す可しと雖ども我内務省にては黄燐マツチは有毒にして口に觸て害ある可しとて重に衛生上の考を以て其製造發賣を禁止したるが爲め我マツチ製造者は輸出販賣の市塲を眼前に見乍ら大利益を空ふするとて毎毎嘆息する所なりしが先般農商務省にては此に見る所ありしにや黄燐マツチ製造輸出の件に就き内務省に照會して利害を説明する所有りしと云ふ實に同省の行事中、千百に十一を得易らざる者にして職分相當の注意振舞とも申す可く我輩は我農商務省が今後專はら此種の事務に出精せんことを希望して止まざる者なり扨又海外貿易に就ては利害の關係廣くして農商務省が實業家の爲めに心を盡す可きもの少なからず特に彼の領事館の如き從來專はら外務省に屬して農商務省との縁因甚だ遠く農商務省が海外商工業上の事に就き其調査を各領事に依頼せんとするの塲合などあれば先つ之を外務省に托し其手に由りて始めて領事に達するの順序なるが故に徒に中間の媒介を多くして隔靴の嘆あるを免れず又彼の領事の報告類は悉く外務省中に集まり其中時に官報に掲載せらるるものあれども一旦農商工に疎縁なる外交部分の手に落つれば領事が多少の丹精を凝らして折角調査したる諸書類も故紙堆中に埋まりて我實業家の耳目に達せざるもの多し遺憾なりと云ふ可し蓋し我政府より海外諸國に公使を送るは外交事務上の關係に出づる者なれども領事を各國に派遣するは外國通商上の便宜に由るものなる可し兩三年前の事なりと覺ゆ英國倫敦府知事が各國公使領事を饗應したる其宴席の演説中に公使は夫れ夫れの國を代表して英國女皇陛下の朝に使するものなれども倫敦府内に駐在する領事は其國通商上の利害を代表して斯く申す倫敦府知事の〓に使するものなり云云の語ありしが如何にも然り領事にして通商上の利害を代表する以上は農商務省は從來の如く之を路人視す可らず或は領事支配の權を農商務省に引き纏め實際農商工の爲めに謀りて有用に之を利用するか然らざるも尚ほ其縁を近くして其人物の撰擇等は農商務省の職權内に含包するこそ至當なる可し斯の如く農商務省に於て農商護衛の省是を定め興利勸業の念を絶ちて力を除害の一報に專らにせんとすれば今の日本の實際に於て其事の繁多なる固より枚擧に暇あらず此繁多の事に當りて農商工の利害の爲めに着着その歩を進むるときは農商務省は無用なり斷然之を廢せざる可らずなど云へる苦情あるに引き替へ全國農商工の爲めに謀りて有用必需、政府諸省中最も重要なる一省として千萬年も其位地を保つことを得べし我輩の所見此くの如し、知らず當局者以て如何と爲す (完)