「須らく無學なる可し」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「須らく無學なる可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

須らく無學なる可し

如何なる學問が最も貴重す可きものなるやとの疑問はハーバート スペンサー氏が其著書

中に論じたる所なれども今や恐くは如何なる無學が最も價値あるやの疑問を論ずるの時な

る可し或人曾てスペンサー氏に歴史上の細條目に關して何か質問せしに氏は全く之を知ら

ずと答へ却て其知らざるを幸なりとて自から滿足する樣子なりしと云ふ蓋し大家碩學と雖

も其才量には自ら限りなき能はず而して記臆力を最も能く使用する學者は唯其記臆せんと

する所の事物に就き判斷を誤らざるの妙處あるのみ抑も教育上に一定明白の主義あるや否

やは知る可らずと雖も若しも果して之ありとするときは學生の腦中に學問の過積を防ぎ、

平生授けられたる各種の學問は秩序井然として各其塲所を占め其生長を保つの一義に外な

らず、學問過積するときは精神の秩序を紊りて思想の完全なる發達を見るは難かる可し世

間の敎育家は一般の世人が人間に倫理常道あることを承認すると同じく此主義を承認せざ

るにあらずと雖も實際に之を履行するものは果して幾人ありや、之を開拓すれば美田を得

べしと雖も其開拓と共に土地の生産力を害して却て後來の發達を妨ぐるが爲めに故らに之

を放置し所謂無學の領地を學生の精神界に留むるの利を知る者は果して幾人ありや我輩は

今の敎育家にして精神界の土地を擧て之を開拓し苟も智力のあらん限りを竭さんとする事

に務めざるものは極めて稀なりと斷言せんとする者なり目下の情况を以てすれば各種の學

校は各競爭して一方に於て其敎則に列する所の科程は他の一方に於ても决して之を廢せざ

るが故に東西南北學校の科程は日々増すことあるも減ずることなく學生は男女に論なく堪

へ得べき丈の重荷を擔はざるを得ずして其結果たる腦裡の過積混雜を起し記臆判斷の力を

害して精神の衰弱を免かれず唯憐む可きのみ之を彼の讀み書きの外に敎育を受けざる兒童

が實物世界に生長し實際の事物に就て漸次に諸種の思想を形作る者に比して利害得失同日

の論に非ざるを知る可し古來人生各種の事業に卓抜の名ある人々が其少小のとき甚だ不完

全なる敎育を受けたるの事實多きは决して偶然ならず即ち是種の事業は其本人が少年の時

より世の所謂敎育の覊絆を脱し實地生活の學校に其身を投したるの效果ならざるはなし抑

も今の世に世界一般の敎育に關する諸種の議論少なからずと雖も目下の要は敎育家たる者

が理論に巧なると同樣、實際にも巧みなるの一事に在るのみ世人の知る如く園丁の花卉を

培養するや務めて其實を結ぶの少なからん事に注意せり若しも少年の精神を養ふに之と同

樣の手段を以てしたらんには學問過積の害は今日の如く大ならざる可しと雖も唯夫れ智力

上に此事を行ふの至難なるが故に世の敎育家なる者は只管収穫の多からん事を欲して自か

ら此害惡を犯さゞるものなし而して我輩の信ずる所にては此害たる女學校に於て最も甚し

きものゝ如し今の女學校を見るに通例男子の學ぶ可き課業の其外に音樂外國語其他諸種の

女藝を敎ゆるのみならず之にても猶ほ不十分なりとして文學、歴史及び古代の制度慣例な

どを課程に加ふる等高尚繁多極りなくして其結果如何を尋ぬれば現象は一にして足らずと

雖も一言以て之を蔽へば人間の靈智靈能を殘滅するの外なし之を要するに文運進歩の兆な

るものは决して喜ぶに足らざるを知る可し今日敎育制度の擴張したるは古來未だ曾て見ざ

る所なれども扨其結果は如何と云ふに實に云ひ甲斐のなき次第にして一般の人心は依然と

して進歩することなく輕信の風は廣く行はれ、惑溺の弊習は甚だ盛に、私黨は政治を壓し、

立法は玩弄物と爲れり、盖し吾人は從來敎育に望を屬すること多きに過ぎたるものなれば

今後幸にして其眞實の主義を了解したらば之を實際に適用するこそ肝要なれ而して多く敎

えずして精神を過勞せしめざるの要は正に其主義中の一箇條たるに相違あらざれば吾人は

教育上に於て人々の精神の自然力を發達せしめ自由に想像力を馳せしむるの餘地を與ふる

事に勉めざる可らず從來吾人は無學を以て最も恐る可きものなりと信じて只管これと戰ひ

學問に至りては絶えて其恐る可きことを知らざりしかども學問は猶ほ食物の如し之を食す

るに其分量と時機とを誤る時は危險この上ある可らず吾人もし學問の恐る可きを熟知する

こと從來無學を恐れたるが如きに至らば茲〔玄+玄〕に始めて敎育の新時代に達したるも

のと云ふ可きなり(ポピユラルサイエンス抄譯)