「林政論」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「林政論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

林政論

我日本國は既に破壞の時代を過ぎて構造の時代に移りたれども世に構造的政論は少なく批

評的破壞的の粗大論のみ喋々囂々として政治社會に充滿するは我輩の痛憎する所なり蓋し

破壞的の粗大論は破壞時代に有力にして大聲喝破一擧に宿弊を掃除するには此上もなき利

器なりしかば從來我政治家は此向きの論法を得意として此一方のみに進み林政の如き農政

の如き若くは商工業上の諸組織の如き多くは破壞したる儘にして之を整頓するの一事に就

ては未だ其構造的の思考を費さゞるものゝ如く敗鱗殘甲、亂雜狼藉如何に纒まる可きやを

知らず今我國經濟上最も重大の關係ある林政の一例を以て示さんに今の官林及び官有山野

は明治の初年諸侯の藩籍奉還に因りて政府の手に歸したる者にして明治十九年の調査に據

れば全國保存林八萬八千五百三十四町五反、供用林六百八十萬五千三百四十六町三反、合

計六百八十九萬三千八百八十町八反にして山野は千百八十九萬四千八百八十町一反なりと

云ふ斯く明白に記載すれば調査も十分行き屆きて境界も明白なるが如くなれども其實は决

して然らず林中に山あり山中に野あり之を區別するの面倒なるは勿論、其何町何反と云ふ

も多くは目分量にして或は一萬町歩と思ひたる林が實際之を測量したらば二萬町歩に增す

可きや五千町歩に減ず可きや夫れさへ精密なるを得ず或は官吏の方に於て甲の峯より乙の

山を見通し此一線を界にして官民林を區分するの心得なりしも官林拂下若くは伐木處分等

に就き明に境界を正さんとすれば人民の申立は之れに反し此官林の境界は甲の峯より乙の

山にはあらで乙の山より丙の立木を見通したる一線なりなど途方もなき説を爲すことあり

然らば其證據は如何と云ふに人民の方にて不慥なる程、官府の方にても不慥にして或は古

老の言ひ傳へなど漠然たる記臆を聞き質して之を始末するに過ぎず又大分縣下などの官林

中には林境極めて廣くして出張林吏の目に餘るものも少なからず土地の案内者が出張吏を

導き林の東端より進行すれば凡そ三分一位の處に至りて是れが官林界なりと云ひ西の端よ

り進むときも同じく三分一位の處にて引き返へし中間三分の一の林地は全く林吏の不識界

に屬して盗伐等の弊害あるも知らぬが佛に過ぎ去るものさへありと云ふ左れば彼の統計表

の如き極めて漠然たる者にして政府部内の人と雖ども之を以て實を得たりと信ずる者はな

かる可し聞く先年井上伯が農商務大臣たりし折、林政整理法を立てんとし逐次十分に調査

して明に其境界を定め官にて所有す可き者は何萬何千町歩として之を所有し一個人民に拂

下げ或は町村等の共有物として下附する者は夫れ夫れ片端より極りを附けて監理の方法を

立てんとせしに斯くては官民林界に種々の苦情爭訟を生じて事容易に纒まる可きに非ず毎

年三十萬圓内外の調査費を支出して全く其功を終るには三十五年を要す可しとの事なりし

かば然らば極々簡便法を執り人民林界に苦情を鳴らして之を訴ふるの塲合には七分は其申

分を立てゝ颯々と事を運びたらば如何と云ふに斯くても年々十萬圓ばかりを要して成功十

五年間に渉る可しとの見込なりしが國の大經濟たる林政整理に時日と出費とを要するは固

より顧みるに足らずとて漸く之れに着手せんとせしに間もなく大臣交迭に因りて林政論も

其の影を失ひたるが如とし斯くて今にも國會を開きて國の經濟に志ある議員が監理し居る

や其歳収入は何程なるや屹度承知致したしとて質問を起すこともあらば如何、大臣は何を

以て之れに答ふるや實は所有主たる政府にても慥に承知致さずと云ふか、主務省の面目に

は非ざる可し凡そ此種の大經濟は構造的の考を以て十分前途の見込を立て調査に長時日を

要すとあれば猶更その着手を急ぎて成功の期限を近くせざる可らず斯くて其取調を凡そ十

五年位に見て着々歩を進め置けば國會議員に答ふるにも其儀は斯く斯くの手順にして前途

幾年の間には十分調査を終り詳細の報告を爲すことを得べし云々とて辨解その辭なきにし

も非らず聞く所に據れば近來農商務省の當局者中既に其のことに着眼して或る部分は調査

に取り掛りたるものありと云ふ我輩の大ひに喜こぶ所にして國の大經濟たる林政に就き凡

で知らずと答ふると取調中なりと答ふると何づれが事宜に適す可きや言を待たずして明白

ならん又この官林調査の際には官に所有す可きものと民有に歸す可きものとを分かち山林

原野何づれにても民有として差支へなきものは町村自治の行なはれたる今日、夫れ夫れ之

れを分給して其の共有物と爲さしむるも可ならん尤とも官有山野などは從來我田舎地方の

秀習例として官は其所有權を有し人民は其所用權を有する姿にて草を刈り薪を拾ひ田家の

頼て以て立つ者も少なからざるが故に其分給の方法に就ては十分講究せざる可らざれども

兎に角林政を整理するの今日に差迫りて必要なるは爭ふ可らざるの事實にして官民政事に

志ある人は漫に高等政治論のみを論せず今より其智慮を周密にして林政を始め其他經濟上

の實問題に就き構造的の考案を凝んこと我輩が今日國會前に當りて呉れ呉れも勸告する所

の者なり