「コレラ病の豫防」
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時事新報に掲載された「コレラ病の豫防」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
コレラ病の豫防
去月下旬より長崎縣下に發したるコレラ病は頗る劇症にて日々患者數十名に上り初發よりは既に數百名の多きに達し益々猖獗の勢あるを以て政府にてはコレラ流行地と認め同地方を發し又は同地方を經て來る船舶には赤間關其他の諸港に於て檢〔手偏〕疫を施行する旨を告示したるが昨今の電報に據ば佐賀、廣嶋、福井、愛媛等の諸縣下にも同患者を生じたりと云ふ本年は春來とかく不時候にして世間に病人の沙汰少なからず過般來流行のインフルエンザも未だ其跡を絶ざるのみならず一時米價の騰貴したる爲め小前の細民などは目前の糊口に差支へて衣食ともに常の如くならざるもの多き由なるに折も折とて此夏先よりコレラ病の流行と聞ては往年西南の役後人民の疲弊に乘じて九州地方に疫毒の慘状を極めたる事例さへ思ひ出して轉た寒心に堪へず左れば政府にても沿道の各府縣に命令を發し豫防法を密にせしめ又府下に於ては警視廳より注意して市街の清潔法を施行する等その用意頗る嚴重なるが如しコレラの害毒たる今更いふ迄もなく東京府下の如く戸口繁密なる塲所に侵入するときは其傳染の勢甚だ速にして忽ち數多の人命を亡ぼすに至る可きは年來の經驗に於て既に明白なる事實なれば其侵入に先ちての豫防策こそ最も大切なれ斯る大切の塲合に臨みては政府の命令處置に多少干渉に類することありとて固より之を忍ばざる可らずと雖も第一の要は其命令處置を能く實際に施して民心に干格するの患なからしむるに在のみ元來コレラを防くは敵兵を防くに異ならず我將校の注意密にして規律嚴重なるも士卒に戰意なくして銘々窃に怠るときは必ず勝利なきが如く政府の命令處置が何ほど嚴重に行屆きたりとて人民の銘々に其心得なきに於ては折角の豫防も遂に無効に歸す可きが故に豫防檢〔手偏〕疫遮斷法等を行ふなど政府の力を假らざる可らざる事柄は其向の命令を待つこと必要なれども其以外の事に至りては銘々の用心覺悟こそ專一にして之を喩へばコレラの發するは猶ほ火を失するが如し苟も失火とあれば之を救ふに官民公私の別はある可らず誰れ彼れの論なく唯火を消すの一筋に盡力す可き筈なるに不幸なるはコレラの形が火の如く明白ならざるが故に官民共に防禦の實に熱心ならず無學の俗吏等が火急の際にも尚ほ官臭を放つて不理窟を張れば無智の細民は之を煩はしとて感染を隱す者さへなきに非ず斯の如きは則ち失火を隱さんとして大火の火元たるに等し實に捨置き難き次第なれば今日の急は先づ第一に府下の醫師を以て消防の指令官と爲し其醫師の官たり民たるに論なく都て其命令に從ひ府民をして苟も之に違背せしめざるは勿論警察の筋の官吏巡査等に至るまでもコレラ消防の事に關しては醫師の配下に在る者と心得謹んで醫命の下に運動すること肝要なる可し云々と兼て我輩の所見を世に公にせんと思ふ折柄一昨日の紙上に掲けたる如く警視廳にては第一局長より府下の各警察署長へ口達して六箇條の要を示したり毎條その精神の在る所は專ら府下の醫師を信任して其運動を自由ならしめ一方には警吏が人民に接するに情を重んじて漫に警察權を弄するを禁ずるものゝ如し我輩は口を放て稱賛せざるを得ず盖し他より任ぜられて始めて自から任ずるは人心の常にして警視廳が斯く己れを虚ふして醫師に任ずるからには醫師も大に奮發して人の知らぬ處までも力を盡す可きは無論、府民も從前コレラ流行の時に當り警吏を恐るゝこと殆んど病毒を恐るゝが如くなりしに引替へ其懇切の情に感じて只管これに依頼し啻に命令に從ふのみならず自から進で病毒撲滅の事に加勢することもある可し即ち公私協力の防禦法にして實効を奏すること决して難からざる可し近來警察事務の着々歩を進めて繁を除き簡に就き漸く人權を重んずるの趣あるは我輩も常に賛成の意を表し與望の歸する所爭ふ可らざる中にも今度のコレラ豫防法の如きは出色の美擧として府民の爲めに警視長官の注意を謝するものなり