「蠶業の保護」
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時事新報に掲載された「蠶業の保護」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
蠶業の保護
民業の保護は其恩澤一般に及んで敢て一部一人に偏せざらんことを主眼と定むべきは蓋し
保護法の定則とも云ふべきなれども左ればとて濫に法律を作り特殊の事情あるを顧みずし
て理論上完美なる一の雛形に束縛せんとするが如きは往々過の種となるものにして其間に
立て料理せんとすることの至難なるは當局者に於ても既往屡々經驗せし所ならん左れば此
般の事は務めて控目にするこそ得策にして差向き其無難なる方法と云へば利を興すよりも
害を除くの主義に如くことなかるべし我輩が夙に農商務省にて此主義を取り各省の間に介
立して苟くも農工商の實利害に關係するものあれば之を保護せんが爲め寸毫も讓る所なか
らんことを希望し常に時機を見て之を勸告するに怠らざりし所以のものは必竟その過を少
なくせしめんが爲めのみ今我輩が此主義によりて聊か當局者の考案を煩はさんとするに蠶
卵紙運送の一事あり抑も蠶業の我が國益に重要なるは固より申す迄もなき所なれば事に甚
だしき妨げなき限りは成るべく之が發達進歩を促すの工風こそ煩はしき所なるに然るに其
進歩と共に益々當業者をして不便を感せしむるは蠶卵紙の運送方にして例へば福嶋若くは
山形地方より越前近傍に輸送せんとするも道路悠遠にして許多の日子を要するが故に途中
往々害を被むり爲めに意外の失敗を來たして蠶業者の勇氣を沮喪すること珍しからず蓋し
鐵道も追々に落成して各地方とも漸く之を利用することとなりたれば鐵道の便を藉りて日
限を短縮するこそ至當の順序なれども是れが即ち不便を訴ふる所以にして鐵道規則により
蠶卵を動物と認め級外の運賃を徴収するが爲め其割合は非常に高くなり到底薄資なる蠶業
家の負擔に堪へざる所なれば一瞬千里の便路を眺めつゝ是非なく險山大水を渉りて急ぐ時
日を迂行せざるを得ず現に山形縣より北陸道の路筋を經て越前に輸送したる運賃と福嶋敦
賀間の汽車運賃とを比較せしに鐵道の高價なること十三倍餘なりしと云ふ當業者の躊躇す
るも亦その故なきに非ざるが如し左れば蠶業保護の主意に從ひ何卒して此不便を解除した
きものなれども〓〓〓ふべきは汽車中の取扱上果して蠶卵紙を動物と同樣に看做さゞる可
らざるや否やの一事なり當業者の説に二化蠶の如きは其發生極めて迅速なるが故に自然特
別の取扱を必要とすと雖も春蠶夏蠶の如きは通常貨物と同樣の取扱をなして更に妨げなし
と云ふ蠶業保護の要用は暫く擱き單に之を貨物としても猶ほ幾干の賃錢を低減し得べきの
みならず若し之を貴重品なりとて高き運賃を要すとせんか少なくとも生絲と同樣の級内に
組入れて决して不權衡あるべしとも思はれず顧ふに從前にありては各地とも蠶業家の規模
大ならざりしが故に隨て種紙も一の貨物として荷造りするに及はざりしなれば徃々他の貨
物と同一荷に混入して以て運賃の高きを免るゝものありし趣なるが此等は法に背く不正の
所爲にして定規の外の沙汰なるは勿論年々營業を擴張するに從ひ右の手段にも漸く差支を
生じて今は公然一種の荷物として取扱ふに至りたれば當業者中には其筋に向ひ請願せんと
て用意する者もあるよし葢し今日に至りて種紙を荷物とするの要用を見るは取りも直さず
蠶業進歩の兆候にして此際汽車運賃の妨ぐる所となり折角發育したる萌芽の萎縮せんも遺
憾の限りなれば農商務省は民間の蠶業家に代はり鐵道局と協議を遂げて其實利を保護せら
れんこと我輩の希望する所なり此等は即ち我輩が日頃持論とする所の保護法一斑にして農
商務省に取りては或は些細の事件なるべしと雖も何事によらず斯る觀察の標準を定めて
着々方針を進むるときは其結果必らず大に見るべきものありて理論的の新令新法に優るあ
ること萬々なるべし