「重ねて大坂米商會所」
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時事新報に掲載された「重ねて大坂米商會所」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
重ねて大坂米商會所
本月二十二日時事新報の電報欄内に見ゆる如く大坂にては官の筋より堂嶋の米商會所に手
を入れて何か取調中なりと云ふ其事柄は固より知る可らず單に此電文に由りて説を作すに
はあらざれども若し萬一も右の取調なるものが過日大坂府並に大坂警察本部より米商會所
に米穀の買占め云々とて説諭したると同樣の趣意にてもあらんには我輩は甚だ之に感服せ
ざる者なり日本國中最第一の物産たる此洪大無量なる米穀を二三商人の手に買占めて國中
の價を上下せしむるなど固より架空の妄想論にして取るに足らざる次第は過日の紙上(八
月廿日時事新報)にも記して讀者の既に了解せられたる所ならんなれども今假に此妄想論
をして米賣買の實地に行はれしめ日本國の米價は實に二三商人の手を以て自由自在に上下
し得るものとせんか、古今の一奇談にして天下財政の根本は據る處なきものと云はざるを
得ず假に妄想論者の思ふがまゝに今の所謂米の買占めを止め得るときは米商は止むを得ず
賣方に廻はり甲も賣り乙も賣る中に二三の英雄現はれ出でゝ大に賣煽ることもあらんには
日本國中の米價は忽ち下落して秋収の豐凶に拘はらず今の七圓臺は六圓と爲り又五圓以下
にも下ることならん然るときは其日稼ぎの細民は仕合せなる代りに農家は全體に難澁して
納税にも差支へ滯納の爲めに公賣處分を被る者際限なきことならん斯る塲合には論者は論
鋒を一轉して曩きに買方を咎めたる代りに今度は賣方を奸商と稱し近來米價の下落して農
民の難澁するは二三商人が漫に米を賣煽るが故なりとて樣々に干渉を運らして賣方の氣勢
を挫き以て國中の米價を高きに維持して農民の難澁を免かれしむることならん斯の如きは
則ち天下財政の根本とてなくして其權柄は二三の米商に歸し無數の勞働者又農民をして飢
えしむるも飽かしむるも勝手次第なりと云ふに異ならず我輩は唯論者の妄想に驚くのみ其
妄想も唯社會の一部分に行はるゝは餘儀なき次第なれども社會の人事に明なりとて敢て自
から任する文明の學者政治家にして尚ほ半信半疑の間に彷徨し時に米價の高きを傳聞して
は成るほど奸商の所爲ならんとて平生學び得たる文明の經濟論をば忘却して遺傳相續の士
族儒流に還俗し奸を惡むの口調を恣にするが故に遂に官邊の人までも之に化して扨こそ商
業社會に容易ならざる災難を生じたることなれ其災難の中にて最も著しきは彼の米商の帳
簿檢〔手偏〕の一條なり凡そ商人に大切なるは金なりと云ふと雖も金より貴きものは商賣
の機密にして此機密を全ふするは商業上の公權なり又商人の身の私權なり今商家の機密は
帳簿に乘せて主人の外に之を知る者なく又これを知るの權利ある者なし然るに大坂の米商
人は米の買占め云々の爲めに公席に呼出されて其機密なる帳簿を他人の面前に披露するの
要用に迫られたりと云ふ實に驚入りたる次第にして本月二十日の時事新報にも聊か鄙見を
述べて讀者の注意を乞ひ最早や事は相濟みたりと思ひの外二十二日大坂よりの電報を見れ
ば又重ねて取調べなりとの事なれば同府にて米の賣買に付き官邊の目を着る所は頗る嚴密
なるを知る可し或は商人等が一時多額の石數を買ふが爲めに價を引上げたるが如き推察も
ありて斯くは丁寧に取調ることならんかと思へども左るにても全國米價の大勢に反して買
占め又賣煽りの事を行ふは醫師が大病人の衰弱を防ぐが爲めに酒精を投じて一時の生力を
維持するに異ならず萬般の商賣に此種の掛引なきものを見ず然るに此商家の掛引を視て社
會に不利なりと認め其成跡は遂に商家の一大機密を他人に披露するに至りしこそ遺憾なれ
英國の如き商家の帳簿を重んずること非常にして例へば相塲所仲買人の帳簿など如何なる
事情に迫るも决して他人の目に觸れず假令へ女皇陛下の權力にても仲買人の帳簿を檢〔手
偏〕査することは叶はずと云ふ我輩は此一事を聞ても英國と我國と商人の品格を殊にする
を知り日本商業の前途尚ほ遙なるを思ひ其發達の容易ならざるを嘆ずる者なり