「尚商立國論」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「尚商立國論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

古來日本は尚武の國と稱して、其武を事とする者を武士と名づけ、社會の上流に位して他の種族を支配し、天

下の榮譽、武家の右に出るものなし。啻に諸般の士族のみにあらず、彼の浪人と稱する無籍の身分にても、苟も

武藝の達人とあれば名聲を四方に轟かして衆人の尊敬する所と爲り、王公も之を臣とせずして師とし事ふるの例

あり。武道を重んずるが故に武士を尊び、武士を尊ぶが故に其道も亦重く、兩者相待て尚武立國の風を成したる

ことなり。此事果して古來の實際に違ふことなくして人事當然の勢ならんには、我輩は今人の想像し又企望する

所に就て聊か怪しむ可きものあり。卽ち近時世上に行はるゝ尚商立國の議論、是なり。開國既に三十餘年、殊に

維新以來、日本國人は意を鋭くして文明の新事物を採り、政事に、武事に、文事に、都て西洋の風を學んで、其

進歩見る可きもの多しと雖も、唯意の如くならざるは經濟の一事にして、政治法律は思ふまゝに制定したれども、

財政の一段に至りては智者も常に無説に苦しみ、文武擴張の方案は涌くが如くなれども、如何なる奇片妙案も費

用不足の一聲と共に忽ち空しきが如し。殊に外國人に接して其智德を比較すれば、雙方一長y短、必ずしも彼れ

を恐るゝに足らざるのみか、我れに固有して誇る可きものも少なからずと雖ども、唯貪富の一事に至りて殘念な

がら三舎を避けざるを得ず。貧者は愚なるが如く怯なるが如く、交際上、常に彼れに光を制せらるゝは、畢竟金

力の強弱輕重に由らざるはなくして、錢の向ふ所、世界に敵なきものゝ如し。是に於てか朝野の士人も漸く心事

を轉じて、文明世界の立國は其要素多き中にも、國民の富實は要中の至要なり。而して今の開國たる我日本に於

て、國を富ますの法は商工殖産の道に依るの外なし。昔年鎖國の時代には武の一方を以て國を立てたれども、今

日は其武を張るにも先づ金を要することにして、其金の由て來る所は商工に在るが故に、古の尚武の語を借用し

て尚商の新文字を作り、商賣を以て國を富まし、其富を以て國事を經營し、政事に、武事に、文事に、外國の交

際に、都て意の如くなるの日を期す可し。卽ち尚商立國の新主義なりとて、此主義を唱る者あれば亦これに和す

る者もありて、兎に角に世上一流の論題と爲りたるは國運進歩の徴にして、我輩の竊に喜ぶ所なりと雖も、今日

我日本社會の有樣を見るに、尚商立國の議論は單に想像の企望のみに止まりて、實際には其痕跡をも見ざるこそ

不審なれ。言はざるに非ず爲ざるなりとは正に今日の適評なる可し。抑も朝野士人の議論に於て、商を尚ぶの要

を知ること昔年封建時代の武に於けるが如くならんには、商道に從事する商人を尊ぶこと武道に從事する武人を

尊ぶが如くにして、始めて天下に尚商の風を成し、有爲の人物も皆爭ふて此道に赴き、人物の集るに從て其道に

重きを致し、人と道と相待てますます勢力を增し、社會の上流に商人の地位を出現して、啻に商賣の事のみなら

ず、人間萬事を支配して以て國を立るの工風を運らす可き筈なるに、維新以來今日に至るまでの實際を見れば、

是等の工風に乏しきのみか、時としては逆行の痕跡さへなきに非ず。封建の時代に士族と平民と尊卑を區別した

る其區別は、維新の社會に變形して官尊民卑の區別を生じ、天下の榮譽は恰も官途に專にせられて、平民社會は

依然たる舊時の百姓町人に異ならず、維新の法律に平民の苗字乘馬を許すが如き、稍や其地位を高めたるに似た

れども、是れは唯人民社會の士農工商を相互に平等ならしめたるまでにして、此人民が官途に對しては平等のま

ゝに更に幾等を下り、官途社會と人民社會との間には常に尊卑の分を明にして、人生の智德、財産、年齢の如何

に論なく、官途に職を奉ずる者は尊くして、民間に群を成す者は卑し。汽船汽車に乘るとき、錢多き者は上客に

して、少なき者は下客たり。商賣上の規則にして官民の別なしと雖も、其上下は唯船中車中の上下にして、船車

を去るときは曩きの下等客たりし官吏が傲然として上等客の上に位して威張り、自から平氣にして他人も亦これ

を怪しむ者なきが如き7、交際風の一斑を見るに足る可し。左れば官尊民卑は封建の士尊民卑に由來して、日本國

民の骨に徹したる習俗なれば、俄に其變化を望む可らず。斯る卑しき人民に商賣を托しながら、尚商立國の主義

など稱して商業の組織を計り其奬勵策を講ずる者あれども、多くは一時の小計策にして、假令へ事に害なきも我

輩は敢て之に依賴せざる者なり。朝野の士人にして果して其主義を重んじて、身躬から深切に責に任ぜんとなら

ば、社會積弊の在る所を詳にして先づ其弊を除き、商人の身に重きを附して自然に商道をして重からしめ、然る

後に奬勵策をも講ず可きのみ。其事甚だ易からずして速成を期す可らずと雖も、既に立國の大計とあるからには

其難きも亦驚くに足らず。難きを忍んで一方に進歩せんこと、我輩の切に祈る所なり。〔八月二十七日〕