「尚商立國論」
このページについて
時事新報に掲載された「尚商立國論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
日本の商業は人事の下流に位し、商人と名くる賤民の事なれば、固より以て立國の原素とするに足らず。官途
人の矯傲なるも祖先來の遺傳にして、商人等の卑屈なるも亦遺傳より外ならず。其遺傅の性質は相互に其徒會の
習慣を成し、尊卑の分界判然として容易に改まる可き氣色もなきは、固より人の罪にあらず、日本徒會の勢なれ
ば、智者と雖も其改良に妙案はなかる可し。或は商工奬勵の爲めにとて、商學校を設け、博覧會、共進會を開き、
或は新聞紙を發兌し、或は商工者の集合會議所を作る等、種々樣々の工風を運らして、其事固より無盆なるに非
ず、名實ともに多少の利益はある可しと雖も、國家百年の大計を計り、尚商立國と既に議論の端を殺したる上は、
其實行の早晩を問はず、大體の主義は豫め一定せざる可らず。其主義未だ定らざる間は、商工の事に闘して奨働
法を施し、又は樣々の規則條例等を設るも、結局一時の小策にして、一時の小利害を左右するに過ぎざるのみ。
蓋し其大體の主義とは、朝野の士人が今より心事を一轉して、商を重んずること昔年の武を重んずるが如くにし
て、以て國を立るの必要を發明したらば、官途の方より率先して官尊民卑の晒習を除き、一歩にても平等の方向
に進むことなり。元來尊卑とは相對の語にして、低きものを高くするも、高きものを低くするも、其成跡は同様
なる可ければ、從前の如く官途人が獨り社會の高處に居て人民の自から奮工局今に登らんことを僕つより広)、先
づ自家の容體を平易にして人民に近づくの工風專一なる可し。人に交るは馬に乗るが如く、御法は御者に在て存
す。今日の勢より見て政府は御者の如く人民は馬の如し。苟も御者の身として此馬は御す可らずと云ふは、馬の
罪に非ず、其實は御法の拙なるのみ。今の人民を卑屈なり無氣力なりと樽して之を捨置くは、御者たる政府が自
から其拙を表白するものにして、經世の策にあらざれば、試に政府の焉めに謀りて人民の御法を講じ、官民相近
づくの法を求めて尚商立國の實效を奏せんとならば、先づ政府の體裁を一愛して商責風に改ること必要なりと我
輩の信ずる所なり。政府は法律を議定實行して民惡を止め、海陸軍を設けて内外の不虞に備へ、租税を賦課して
政費に供し、貨幣を造り、遞信を司どり、外交を調和し、内治を整理する等、其細目は無限なれども。大凡そ是
等の事務を取扱ふ一大商店とも名く可きものにして、今世の時勢、唯人民に對して約束を守り約束を守らしむる
のみ、特に私恩を施し虛威を張るが如き舊筆法は既に無用に屬したりと知る可し。恩威既に無用なりとすれば、
官吏が人民に對して尊大なるは、政略上に毫も益なくして、唯徒に私の情慾を逞うするものなれば、自から省み
て大に愼む所なかる可らず。官私の間に交通する言語文書の如きも、其慣行を改めて相對平等の體裁に從はざる
可らず。又政府の上流に居る政治家は、政治の一方に心身を委ること、商人の商賣一方に於けるが如くなれば、
是れは一種の専門家なれども、之に隨從して事務を取扱ふ書記官以下に至りては尋常一樣の職人にして、唯自分
の藝能を政府に賣り其報酬に衣食すること、諸會社又は商人の家に雇れて給料を取る者に異ならず。唯彼れは政
府の事を勤め、此れは民間の事を執るの相違あるのみなれば、書記官の官の字は之を止めて單に書記とするか、
或は支配人手代などの名に改めて、民間に在る同職の者と稱呼を同樣にし尊卑を平等にする方、穩當なる可し。
又書記官の官の字を止るからには、之に位階を授るが如き最も不釣合なれば、其慣行を廢せざる可らず。啻に書
記官のみならず、其以上以下、都て官途に位階の存する限りは、自から人權の輕重に影響して、商工社會を蔑視
するの媒介たる可きが故に、官民の別なく、一切無位平等の日本國民たる可し。又華族も數百年來の由緒ある者
を除くの外に新華族を增殖せしむるは經世上の不得策にして、尚商立國など云ふ文明の富國論に戻り、兩者相互
に逆行するものなれば、既に尚商と決したる上は、事の輕重を思案して決する所なかる可らず。
右は官途社會の驕傲尊大と人民社會の卑屈無氣力とを竝べ、此の一方の低きものをして昇らしむるも、他の一
方の高きものをして降らしむるも、其成跡は異ならざるか故に、寧ろ其高きを制限して平等に至らしむるこそ捷
徑なれとて、試に方案を立てたるものなり。此立案に從ふときは、商工の輩も官途に對し稍や輕重の平均を得て、
其社會全體に地位の重きを成し、地位重ければ人物も亦集りて益々重きを加へ、遂には我商工業をして立國の要
素たらしむるの日もある可し。然り而して此方針に向ふたるが爲め、官途の當局者は果して大に心身を苦しむる
ことある可きやと尋るに、我輩の所見にては毫も其實利に損することなくして、失ふ所は兒戲に等しき虛威虛名
たるに過ぎず、苟も國に忠にして百年の長計を思ふ者は、私の虛榮に戀々して國計の發達を妨ること勿かる可し
と竊に信ずる所なり。
〔八月三十日〕