「・元老院議官に所望あり」
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時事新報に掲載された「・元老院議官に所望あり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
・元老院議官に所望あり
官尊民卑の勢は今の日本の通弊なれども商工實業の部分に至りて特に甚しきを極むるは何ぞや他なし此社會中に智德の分量少なくして他と相對峙するに當り實際品格の卑しきが故なり凡そ何れの國にても社會の人品を區別すれば上中下の三等となり更に其中等を區別すれば中の上、中の下の二種となる可し而して此中等二種の人物は概して學識經驗に富み實地智識の上より云へば國中最高等に位するが故に此人物の輻輳して其心力を盡さんとする事業は自然名譽と品格とを增して國事の骨髓たるを常とす即ち西洋商業國中、彼の英米二國の如き中等社會の人々は重に商工業に從事して中の上の人物は銀行頭取并に役員、商館の主人、會社の重役等を勤め又中の下の人物は諸商館の手代書記并に諸工場の取締役等の職に在るが故に商工の事は人物と共に名譽を生じて其位地亦隨て高く其社會に氣力ありて何となく奧ゆかしく見ゆることなれども我日本國の中等人種即ち士族流の人々は重に政治の一方に偏し爭ふて其門に群集するが故に政治は格外に名譽を生じて光明赫々の勢いあれども政治社會の明なる程に商工社會は幽暗にして名譽もなければ品格もなく之に從事する多數人は所謂齷齪斗〓の輩若くは卑屈無心の徒のみ其社會の昏弱にして事業に勇む膽力根氣の凜然として振ふこと能はざるは誠に嘆はしき事共なり是れも蓋し封建鎖國の世の中ならば士農と工商との間に分限を作りて商工勢力の振興を許さゞるの事情もあり時世已むを得ざる次第なりしと雖も今や商工立國は世界一般の大勢にして我日本國の如きも亦この大勢中に運動する者なりとすれば商工社會に人物を得て隨て其品格を增し天下一般の人をして重きを此社會に置かしむること實に當務の急なる可し即ち我輩が近年來學者政治家技術家に論なく機會に乘じて進んで我商工界に入り身を利し兼ねて國を利するの勇なかる可らず云々とて勸誘百端取て自ら倦厭せざる所以にして今や彼の元老院議官諸氏に向て更に此勸誘説を呈することを得るに至りたるは我輩が商工社會の爲めに竊に祝賀する所なり聞く所に據れば政府は來る十月頃までに元老院を廢して議官中の一部分は勅撰貴族院議員となし他は恩給令に因り夫れ夫れ其恩給を與へて閑地に就かしむる都合なりと云へり蓋し議官諸氏の如き所謂功成り名遂げたる者にして昔し封建の時代ならば身退て樂隱居に安んず可き筈なれども今の文明世界にては知命前後の士人をして故らに早衰せしむるを要せず政治上の范蠡が五湖に其餘力を伸べて宛然陶朱公たらんとすれば商工社會は之を容れて共に其力に依る可きや必せり且つ議官諸氏の如き政治社會の元老として人に重んぜられたる者にして智慮に富み世故に老ゆるのみならず多少の財産信用を有する者さへ多かる可きが故に一朝無人の商工界に入りて事に當らんとすることあれば馬伏波果して老たりと雖も按に據りて顧〓、尚その餘裕を示すに足る可し斯くて政治社會に於て相當の地位を得たる者が追々商工社會に入り其人物の重きに因りて此社會の重きを加ふるに至らば事實商工を獨立して名譽品格を增すと同時に其繁昌の勢を助けて國家富強の長計を立つることを得べし抑も今の政治家中には經濟富國を喋々する者多けれど所謂古習性を成して漫に商工社會を卑
下するか或は實行の勇氣なく臆病なる大將が遙か隔りたる陣後より進め進めの軍配を振ふと一般、遠方に在りて徒に大言名策を竝べ立つるに止まるか或は一時政治上の失望等にて身を商工界に投ずる者あるも越鳥巣南枝、胡馬嘶北風の本文に違はず商工社會は一時借館休息の地として風雲再び政治上より舞ひ下れば身を翻して復た之に乘り移り忽ち元の政治界に歸參する等眞實商工社會の重きを任じて終始此社會の忠臣たる者、殆んど皆無なりと云ふも可ならん左れば元老院議官諸氏の如き地位名望ある者が近々廢院の機會を以て身を江湖の廣きに放たんとするこそ幸なれ西洋有爲の士人輩が白髮蒼眼、世事に勉めて老の將に至らんとするを知らざるは諸氏の夙に見聞する所にして諸氏が知命前後の身にて俄に樂隱居の群に入り飴を舐て孫を弄ぶの老耄爺たるを甘んぜざるは我輩の篤く信ずる所なれ
ば我輩は諸氏が半生政治上に爲したる事業の手を今より更に商工界に移して一生の思出に餘勇を此社會に示し其名望の重きと共に商工全體の重きを致さんこと今日の機會を以て一堂諸氏に懇望して已まざるなり