「鐵道水害」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「鐵道水害」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

鐵道水害

我國に水害の多きは隱れもなき事實にして近年は最も甚だしく夏秋の頃に至れば全國何れの場所にか必ず其沙汰を聞く程の次第にして之が爲めに年々の損害は尋常の事にあらず蓋し山林濫伐、堤防不完全等の箇條も幾分か害を招くの近因を爲したるに相違なかる可しと雖も元來我國の地勢たる中央は山脊高原の地を占め到る處の川流は何れも源を高處に發して司法の低地に下るものなるが故に其勾配速度は最も急激にして動もすれば奔逸の患を免かれざる其上に我國固有の稻田に水を灌ぐが爲め殊更に河流を堰き止めて水を停滯せしむるの慣習は他の鐵道國人の知らざる一種の障害物なり天然の地形に加ふるに人爲の障害を以てし秋霜連日水量大に増加するに當りては堤防を破り道路を損し田畠を浸し人家を流し甚しきは人命を害するに至るも勢の免れざる所にして人或は我國の水害を目して永久不治のものなりと云ふものあれども強ち不當の言ならざるが如し兔に角に水害は我國特殊の患なりとして扨て世に之れを患ふる者の言を聞くに其田畑を荒らして大に秋收を減ずるの害は喋々これを口にして慘状の非常なるを説けども獨り運輸交通を妨げて社會の氣脈を阻絶するの害に至りては或は等閑に付し去るもの多きが如し米食國たる日本の人情に於ては一應無理ならぬ次第なれども秋收を奪はるゝの患は云はゞ水邊一帶に限る局部の患にして全國一般の患にあらず然るに運輸交通を妨ぐるの一段となりては其影響は甚だ容易ならざるものあり例へば暴風雨出水の爲めに鐵道の線路不通となり旅客荷物を運搬する能はざること十數日以上にも渉ることあらば其影響は如何なる可きや其道筋に於ける輸出入の便を斷絶して商品は停滯し取引は行はれず商賣上の損害無限なる其上に或は旅行の歸路を絶たれて空しく旅館に呻吟するものもあらん或は他郷に在る父母兄弟急病の報に接しながら一歩も踏み出すこと能はざるものもあらん又或は定着の旅行中半途に拘留せられて懷中旅費の乏しきに困却するものもあらん其差支は千首萬樣殆んど名状す可らずして獨り當局者の困難のみに止まらず廣く全國の人事を澁滯せしむるに至る可し日本鐵道會社の線路、大宮の邊に於て不通の變を生ずるときは東北一帶の地方は申す迄もなく水戸兩毛乃至東山北越等の交通は概して影響を蒙るものにして利害の決して容易ならざるを知る可し往昔東海道五十三驛を旅行するに十五日を費したる時代には交通都て緩慢なれば大井川の川留も却て憂るに足らず之が爲め全國の商賣人事に差したる影響もなかりし事なれども今日は即ち然らずして國中に運輸交通の機關完備して自由自在に活動する最中、不意に一箇處の不經を生ずるときは恰も急所の脈管を傷けたるに均しく全體の運動は全く停止するか然らざるも大に澁滯せざるを得ず其停止澁滯は即ち社會人事の運動を妨ぐるものにして之を防ぐること一日なれば社會人事の運動も亦一日の進歩を妨げらるゝものなり去月二十二日の強雨以來東海道及び東北鐵道の線路處々に破損を生じ或は橋梁の落たる場所もあり或は線路に水の乘りたる個處もありて今日に至りても尚ほ汽車の全通を告げず非常の天災と云ふ可し然りと雖も天災の到來は今年を限るに非ず今後毎年如何なる變あらんも亦測る可らず即ち測る可らざるの天災なれば鐵道の當局者は特に將來に注意する所なかる可らず最上の所望を云へば稻田の用水と鐵道の保存とは兩立す可らざるものとして斷じて耕地の制を改ることなれども朝野の人をして其邊にまで會心せしむるは迚も一朝夕の事にあらざる可ければ既成線路の修繕改築等に當りては費用を愛まずして日本特色の堅固を謀り或は又自今新設の計畫あるものは專ら從來の災害に鑑みて線路の地理を撰ぶこと肝要なる可し偶ま鐵道の水害を聞き思付きたるまゝ爰に一言するものなり