「凝る勿れ」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「凝る勿れ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

凝る勿れ

我輩は浮世の人事に凝ることを好まざる者なり之に凝るとは其事を餘り大切に思ひ過ることにして例へば碁將棋に凝る者あり釣に凝る者あり其これに凝るや眠食を忘るゝまでに至れども碁に負けたりとて殘念は殘念ながら相手と絶交するまでには至らず釣を妨げられたりとて其妨害者に決鬪を申入れたる者あるを聞かず即ち碁將棋釣の凝りは未だ頂上に達せざるものと知る可し是れより一歩を進めて金に凝る者に至れば其熱度は遙に高くして射利の爲めには眠食を忘れて常に身の不養生を犯すのみならず商賣上の一勝一敗、胸に大波動を生じて喜で天に昇らんとするの反對に憂て地に入らんとする者あり甚だしきは家道衰微の爲めに病を發し尚ほ甚だしきは失敗を苦勞にして自殺する者さへなきに非ず蓋し我輩が人事に凝る勿れとは正に此邊に適する警にして其次第を云はんに此商人が家業の爲めに勉強して眠食を忘るゝまでは尚ほ可なりと雖も其金を好み金を重んずること餘り甚だしきに過ぎ人間世界に金ほど貴きものはなし我生命は全く金を以て立行くものなりと一心不亂に凝り固まりて胸中に少しの猶豫なきゆえに扨こそ金の爲めに義理を缺き人情を破り病を廢し遂には自殺にまで及ぶことなれ若しも此人にして今少しく心事を高尚にして度量を潤くし假令へ金の爲めに勉強して齷齪するも其勉強齷齪は唯その場合の事に止まり本心の位は遙に金の外に在りて損得を手輕に視ることを得ば如何ばかりか安樂なる可きや一文を愛しみても百の損亡に心を痛ましめず百千萬の財産を所有しながら本來無一物の清標を全ふす可し今その然らざるは唯金に凝るが故のみ憐む可きにあらずや右は唯金の世界のみならず政治社會に於ても同樣の事情あるが如し本來政治も人事の一部分にして其才力ある人には之を行ふて至極面白きものなれども政治を以て人生無上の仕事と思ひ男子に生れて官途に出身せざれば生れたる甲斐なしとまでに凝り固まるに於ては其弊害亦擧げて言ふ可らず今世に官尊民卑の陋習を養成して官途熱心の風潮を劇くし施政の困難を致して却て民間に獨立事業の發達を妨るが如きも官途の人々が官を重んずること其實に過ぎ官職と共に其身も重きものなりと心得て隨て人民を侮り民事を賤しむが故なり又官途の人は其官に凝り固まりて畢生の心事を問へば政治の外に爲す可き事なく、言ふ可き言なく、交際もなく、樂事もなくして政治社會を去るは恰も一身の死したると同樣の次第なれば其去を忌むと同時に之に就くときは宿昔の名譽心を一時に現はし名義にも事實にも苟も他の下流に就くを快とせず如何となれば此種の人々は政府を去て他に功名を成すの地位なく又これを成さんとするの考もなき者なればなり是に於てか遂に政府部内に居ながら竊に地位權力の輕重を爭ふて相互に調和を失ふの患なきに非ず例へば多年來内閣の權力を統一するものなくして甚だしきは閣員相互の主義を殊にするの誤さへ毎度傳聞する所にして奇なるに似たれども今その然る所以を尋れば閣員が政治を重んずること非常にして其地位を手輕に觀ること能はず千載一遇こゝに功名を得ざれば他に機會ある可らずとて一心不亂に之に粘着し公けにも私にも毫も讓る所なくして自家の體面を張らんことを試み相互に妨るが如く又助るが如くにして遂に何人の意見をも滿足に通用せしめず其趣は封建時代に大名の奧向にて夥多の女中等が表面を優しく附合ながら内實相互に邪魔したるが如く常に統一の地位に居る者をして心痛せしむるの事情多きが故なり主義の異なると云ふよりも唯徒に反對を試る者多しと云ふて可ならんか扨々窮屈なりと云ふ可し若しも此人々が事を寛大にして胸中に餘地を存し政府を一種の活劇場と視倣して自分等も銘々に得意の藝を演ずる者なりと覺悟するときは其劇場に誰れが由良之助を勤めて誰れが平右衞と爲るも其尊卑は唯政府と名くる舞臺限りの尊卑のみ、舞臺を去て樂屋に入れば平生の私交常に異ならずして人々の年齡もあり社會上の履歴もあり知識の深淺もあれば風采の文野もありて由良之助必ずしも主座に居らずして平右衞門亦足輕にあらず舞臺の藝と平生の私交と其分界を明にし藝の尊卑を以て私交に輕重を爲さず以て舞臺の體裁を好くして施政の演劇を滑にするを得べし例へば英國に於て目下グラットストーンが政府外に在ればとて在朝のソオルズベリーに對して身の輕重に秋毫の差あるを見ず啻に在野の政治家のみならず學者にても宗教家にても又商人にても其私の交際に於ては官途の人に比して正しく平等の地位に位するの習俗なるに獨り我日本國に於ては官民の間に尊卑の大溝渠を作りて苟も官に居て何々の身分なりと云へば恰も其の身分を携へて私の交際場に現はれ冠婚葬祭觀花にも遊山にも官の光明を耀かして既に人氣を損したる其上に官途部内に一階一級の上下を爭ひ其部内の私交にも公けの階級を通用せしめんとして果ては公務にも苦々しき事情を見るとは芝居の殿樣が樂屋に入りても尚ほ殿樣を氣取るが爲め其影響を公けの舞臺に及ぼし演藝の最中に由良之助が竊に判官の所作を妨げて興を醒ますに異ならず見物の迷惑のみならず役者の爲めに氣の毒なりと云ふの外なし畢竟士族の末孫たる今日の政治家が胸中に餘地なく政治の功名に凝り固まるの罪にして此凝りの解けざる間は我政治社會の圓滑は望む可らず殊に立憲國會の世の中にもなれば我輩は切に其の解凝を祈る者なり