「相塲所營業の延期」
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時事新報に掲載された「相塲所營業の延期」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
武士と町人と風俗習慣を殊にするは由來久しきことにして今日に至るまでも商賣社會の人
には政治の思想乏しく武士の末流なる政府の人は商賣の思想に貧なり左れば雙方共に此舊
風習を脱するまでは先づ以てコ川時代の流儀に從ひ商賣の事は商人の隨意に任せ政府の政
權を犯さゞる限りは之を捨置くの外なかる可しと思へども我政治社會は西洋文明の風に吹
かれて事務次第に繁多を致し時としては政權外に逸して民事に干渉し商賣の思想に乏しき
者が商賣を左右せんとするの事情なきに非ず即ち昨日農商務省より許可せられたる株式取
引所米商會所營業延期の由來の如き其一例として見る可し抑も取引所條例の發布は明治廿
年五月にして舊來の相塲所は新條例の實施と共に破壞せらる可き筈なりしかども元と此新
法たるや商賣取引の實際に適す可きものに非ずして強ひて之を實施せんとすれば日本國中
に相塲を止むるより外に路ある可らず之を人の住居に喩へんに臺所と湯殿流し塲を二階に
設けて人の出入は屋根の引窓よりせよと云ふに異ならず道理に於ては出來ざるに非ざれど
も尋常の家屋に慣れたる者は迚も其不便に堪へずして先づ以て之を避るの外なし即ち新法
の行はれざる由縁にして政府にても無理に之を強ゆる譯けに參らず左れば商人の住慣れた
る舊相塲所に三年の猶豫を許さんとて明治二十四年六月までを限り其間に内國の商状を取
調べ尚ほ又延引ながら外國の事情を今一應探索したらば妙案もあらんかとて態々官私の人
を海外に派遣したれども固より不思議の商法ある可きに非ず夫れ是れする中に來年の六月
は近きに迫まり此まゝに過ぎ去りたらんには國中に一時相塲取引の中絶も計り難し何は扨
置き今一度の延期こそ必要なれとて今回更に三箇年延期の許可にも及びしことなる可し實
を申せば一令を發して實際に行ふ可らず、之を試ること三年にして尚ほ其可否を决せざる
とは如何にも奇なるに似たれども農商務省の大臣に更迭の頻々たりしも是亦奇なる程の次
第にして官邊種々樣々の事情の爲めに相塲所の一事は不幸にして忘れられたることならん
左れば今日と爲りては是れ迄の三年は空しく經過したる姿にして今度の延期は時日切迫の
爲めに止むを得ざるの處分なる可ければ我輩に於ても強ち之を無理と云はず現政府の事態
に於て隨分ある可きことゝして觀念すれども其延期の期を三年としたるは請取り難きが如
しブールスの實施す可らざるは既に商賣社會の與論にして今日は其ブールス發起の人々も
明に不便利を悟りて設立の念を斷たる程の次第なれば政府にして果して民業を重んじて干
渉の得策ならざるを悟るに於ては新條例を大に改正して商賣の實際に適せしむるか又は從
前の相塲所に行はる可き丈けの改良を施して新條例を全廢するか二者その一に决するは左
まで日月を要するに非ず到底今日の日本人にて勝手向きを二階にして引窓より出入するが
如き新築の家に引移ることは出來難き相談なるゆえ大に模樣替して普通の住居と爲すか又
は是れまでの舊宅を修繕して永久住居と定むるか其孰れに决するは必ずしも今後三年の思
案を要する程の難問題に非ず速に斷行して差支なかる可しと我輩の竊に信ずる所なり本來
事の便宜より云へば新築梶X未だ一度も住居を試みざる其家屋を改築するよりも住み慣れ
たる家に相當の修繕を加ふるこそ智者の事にして且今日は世論一般に之を評し、ブールス
發起の人々も之に賛成し、政府の筋にても漸く利害を悟りたる樣子なれば必ず舊宅の修繕
論に决することならんと思へども色々の差支にて新宅保存の議もあらんか兩樣擇ぶ所なし
唯古來日本國に住み慣れたる商賣安を妨げざれば他に苦情はある可らず兎に角に今度の一
擧を以て數年來縺て解けざりし紛紜も漸く終局に赴き地上の波瀾始めて平なりと云ふ可し
相塲所に關係する商人等の利害は姑く擱き商業の體面の爲めに祝す可し誠に目出度き次第
なれども一方より我輩の所見を以てすれば此目出度き有樣は霖雨始めて収まりて洪水の漸
く減したるものに異ならず河流舊に復したるは祝す可きなれども實を申せば初めより天氣
順當にして出水せざるこそ願はしけれ天災は之を避るに道なきも人爲を以て平地に波を起
すが如き誠に歎かはしき次第にして當初政府の人に商賣の思想あらんには三五年來の波瀾
もなく又隨て今日商賣上の慶事もなかる可き筈なりと我輩は農商務省の處分を賛成すると
共に尚ほ今後百般の商政に就て警戒の微意を呈するものなり