「人口問題」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「人口問題」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

人口問題

歐洲諸國の政治家は夙に努力者の始末に困じ頻りに殖民政策を講して其方針を東西に差向け相爭ふの事實は新聞紙上にも見ゆる通りにして其苦心想ひ見るに堪へたり我國の政治家も頗る苦心多くして繁忙の極、近來は夜を日に繼ぐの有樣なれども是れは唯内輪の改革掛引に外ならざれば世人は彼の人口日々に増加して民、生を薄くし文明の利器次第に發達して勞働者の業を失ふ等社會の層底に愁雲漠々として經世の難澁を釀すなどは全く歐洲諸國の事にして對岸の火と認め日本國務の急要は單に政治社會の始末にありと臆定して疑はざるものゝ如し洵に然らば幸福の頂上なれども實際は中々左樣のものに非ずして日本人口の増加また甚だ驚くべきものあり明治十年の前後には三千五百萬と聞えたりしに昨今年に至りては既に四千萬近くに達し僅か十年の間に五百萬人の増殖にして平凡凡そ一年五十萬人の割合なれば今後十數年の後には或は一算を進めて五千萬の聲を聞くこともあるべし蓋し日本にては人口の増加極めて迅速にしてマルサス氏の所謂幾何學的の割合に類似するの傾きあるが故に三千五百萬に付十萬の増加を以て四千萬人にも亦同樣なりと算す可らず年は一年なれども人は其數を同うせざるが故に一年は一年より増加の割合を高くすること固より數理の順序なるのみならず近來は衞生の道次第に開けて疫病も猖獗を逞うすること能はず法律の制裁嚴密にして墮胎も亦容易ならざる上に文明交通の便利は中央吸集の勢を促し凡そ志を抱いて身を立てんとするの有爲者は相率ゐて都會に輻輳思想狹隘にして貧窶の中に碌々たる者のみ邊陬の地に僻在して身に業なく心に樂みなければ徒らに子孫の繁殖を助くるのみ斯くて年々に増加する人民は如何にして衣食住の道を得べきやとて顧みて日本の内地を見れば所により多少の空地を殘すものなきに非ざれども概して耕し得べき限りを耕し盡したるものにして如何に改良の方法を施せばとて此上の收穫は大に望む可らず十年以前三千五百萬の人口を以て斯土に衣食し毫も富榮の實なかりし者が四千萬となり五千萬となりて其生計の安穩を望むも豈得べけんや日にますます訴窮の聲を高くするは固より怪しむに足らざるなり況んや文明の利器の影響は何處も同じことにして無産の人民は更に無用の人民となり漸く生存場裡を驅逐せられて路頭に迷うもの益々多きを加ふ唯積年の習慣、性をなして飢餓に瀕するまでも敢て忍んで甚だしき不隱を釀すに至らざれども近來の状況より推して竊に將來を察するときは早晩經世の大難澁たらんこと鏡に懸けて見るが如し決して彼岸の火事にあらざるなり假に今後十年間の増殖を内端に積りて五百萬人とするも此五百萬の人を容るゝには別に新に九州を得るか四國を造らざる可らず十年の光陰矢の如し事情切迫なりと云ふ可し左れば即今の處にては北海道なるものあるこそ幸なれ之に向て充分に拓地殖民の計を畫するときは由て以て公私數年の經綸を立つるに足るべしと雖も風土適せざるものあり抔との口實を以て容易に移住を思ひ立つもの少なく依然瘠土に齷齪して飢餓を待つの癡態を呈するもの比々皆然り本來政治家の任務は朝に立ちて政を議するのみにあらず時運の如何を察して人心の方向を左右するが如き今の日本の國情に照して亦是れ要用の一事なれば政府の當局者は勿論民間の政事家に於ても地方にありて先覺の位置を占むることならんなれば少なくとも其最寄を誘導して移住の道を開き陰然國の爲めに計る所なかる可らず此の如くして漸を追ひ纔に北海の富を興すことを得るとするも少しく想を遠方に馳せて世界に於ける生存競爭の有樣を察するときは前記の如く歐洲諸國の政策に油斷なくして向後我國の經營頗ぶる苦辛を要すべきは固より明白の次第なれば今より經國の方針を定め米國に濠州に遠征網利の工風をなさずんば噬臍の悔必らず遠きに非ざるべし國を憂ふる者の最も痛心すべき所ならん歟蓋し海外に生を營むの一事は我國人の最も實行を難んずる所なれば其第一着は海外の風土事情を知らしむるに如くことなし之を知らしむるの策は大に航海を奬勵して彼我相密接するの便を助くる等も亦差向きの一法なるべし之を要するに我輩は人口問題を以て日本國務の急要と認め一片の憂心仲々措く能はざるものなり