「條約改正の風聞」

last updated: 2019-11-24

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時事新報に掲載された「條約改正の風聞」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

久しく世間に忘れられたる條約改正の噂は近來復た人の注意を促すものゝ如し外交の機密

は問ふ可らず其當局者の外は朝野共に知る者なしと雖も濱邊の風聞に今度日本政府より

申出したる改正案は英國に於て反對少なく既に同國の商業會議所にて同意を表したるに付

ては或は政府も之を承諾するならんとのことにて信否固より知る可らざれども遂に濱中

の評判と爲り居留地の外國人等が之を聞て驚き、中には改正の不利を説き或はこれを新聞

紙に訴へ或は集會演説など催ほして頻りに非を鳴らす者もある由は過日來の事實に現はれ

て紛れもなき所なり抑も我日本國が條約の改正を求るは日本に限りて特別の利uを得んと

するに非ず國と國と相對して彼れに與ふる丈けのものを我れに取るまでの所望なれば我國

に居留する外國の人々に於ても决して苦しき譯にあらざれども凡そ人生に慣れたることを

改むるは至極不愉快なるものにして彼の居留人等も開港以來三十餘年今の條約に慣れて或

は其由來を知らざる者さへある程の次第なれば今日に至りて此舊慣を一變すると聞ては第

一その情感に不愉快なるのみならず今の不完全なる條約が日本國人に不利とあれば外國人

には自から便利なる所もある可し即ち居留地と名くる自由自在國に住居して日本國法の外

に逍遥し、貿易商賣の課税法も主人たる日本國の意の如くならしめずして其權力の半を握

るなど實際の利uも少なからざることなれば人生の慾情に制せられて此條約の改正に非を

唱るも強ち無理にあらず啻に居留の外國人のみならず濱住居の日本人の爲めに謀りても

狹き一港に限りて恰も貿易の咽喉を占め地所の價にても非常に貴きものが内地一般に開放

となれば從前の壟斷を失ふの姿にして多少の不利ある可しと雖も如何せん國と國との間に

取結ぶ條約は雙方國民の全體の爲めに永遠の利uを目的とすることなれば其國民中の一小

部分の爲めに全體の利害を左右す可らず左れば目下偶ま横濱に居留する少數の外國人中の

又その一部分の人々が改正の非を喋々したりとて事の成敗に何等の影響もある可らざれば

斯る非望を望んで徒に日月を費さんよりも世界の大勢に於て日本の條約も到底不完全の

まゝに差置くことの難きを悟りたらんには今より心事を轉じて今後第二の謀を爲し居留地

に鎖籠りて目前の小利害に齷齪せんよりも廣く内地に入込みて同胞の本國人と共に大に日

本貿易の事を經營し本國を利し又日本國を利し雙方共に永く交通のコ澤に浴するは誠に文

明の事なる可し今の居留人は知るや知らずや僅に三十餘年前、諸外人は日本の鎖國主義を

破らんとして之を嘲り之を笑ひしに今は我日本國人が斷じて國を開かんとするに當り其外

國人が却て居留地に鎖國して開くを好まずと云ふ苟も三十年を記臆する外人ならんには自

問自答して聊か赤面する所ある可し但し非改正論の外國人は日本の法律不安心云々を主張

するよしなれども是れは其人が昔物語のみを能く記臆して今の日本を知らざるの罪か、或

は之を知れども之を默して昔物語を好き口實に用ふるのみならんなれば特に辨論するにも

足らざるなり

右の次第にて我輩は濱の居留人中に行はるゝ非條約改正論を一概に擯斥し罵詈し去らん

とする者に非ず三十餘年來身に慣れたる舊慣に戀々するは人情に尤もなりとして大に之を

恕し唯世界の大勢に訴へて其心事の一轉を祈り到底維持す可らざる治外法權の鎖國籠城な

らば斷じて思切る可し、一小部分の人が團結しても一二の新聞紙が喋々しても國交際の大

局は動かす可らず、早く自から將來の謀を爲す可しと勸告するまでのことにして居留の外

國人中自から老實公平の君子も多きことなれば事の成敗は預め期する所ある可しと雖も爰

に掛念なるは外國の非改正論者が其非を鳴らすこと熱きに過ぎ演説に新聞に囃立れば熱心

家の多きは何れの國も同樣にして日本の論客にも亦熱氣を催ほし恰も好敵手を得たる心地

して騒々しく辨論を開き熱と熱と衝突するが如き始末にも至る可しと其邊の心配なきにあ

らず斯ては國交際の體裁甚だ宜からずして雙方の品格を落すのみならず長堤の破壞も蟻穴

よりするの喩に洩れず如何なる細事件より如何なる大間違を生ずるやも計る可らず誠に歎

かはしき次第なれば濱の非改正論その議論は苦しからず理非に拘はらず自家の所思を十

分に吐露す可しと雖も其口調をば優美にして爭論を君子の爭と爲し亦我論者に於ても之に

對して相互に野鄙の境界を脱するやう我輩の切に冀望する所なり