「露國減兵の一報」
このページについて
時事新報に掲載された「露國減兵の一報」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
露國減兵の一報
露國が明年を期して大に兵を減ずるの計畫ありとは過日の倫敦電報に見えたる所なり報道簡單にして委しき理由を知るに由なく信僞容易に斷ず可らずと雖も若し果して事實にてもあらんには其關係する所は實に淺少ならざる可し抑も歐洲の列國が互に其境上に睨視して寸分の油斷なく彼に増兵の議ありと聞けば我も亦直に兵數を増し彼に新兵器の發明ありと傳ふれば我も亦屈強の利器を採用し互に探偵間牒を派遣して彼我の軍情を探知するなど戰爭の用意は常に怠らずして一旦事ありと云ふの日には直に幾十萬の精兵を國境に繰出すの準備整はざるの國なしと云ふ斯の如く四方虎視耽々たる列國睨合ひの間に在りて露國が俄に兵を減ずるとは怪しむ可きに似たれども姑く此報道を事實なりとして信ずるときは自から亦信ず可きの理由なきにあらず歐洲諸新聞紙の記する所に據れば獨逸の今帝は近來頗る平和主義に傾き同國從來の政略にも變更を來したる所あるより佛國との關係なども大に體面を改めたる折柄先月中同帝が露都に赴き露帝に會合したるも兩國間の交情を密にし專ら歐洲の平和を謀るの意に出でたるものなりと云ふ之に由て考ふれば露國に於て此際減兵の計畫あるは兩國間に云々の約束成りて露國先づ其事を發表したるものなるやも知る可らず果して然らば此事たる獨り兩國間の約束に止まらずして其他の列國も之を承認したることならんと想像せざるを得ず故に露國がいよいよ減兵を實行すれば獨逸も亦これを減じ獨逸これを行へば佛國も亦これを行ひ伊太利澳地利亦次で之を行ふ事ならん西洋諸國の商賣社會には年來久しく競爭の主義行はれ商賣人は只管巳れの力を以て他を壓せんとて百方手段を盡して人と爭ふに餘念なかりしも競爭の極は唯商敵を壓するに止まらず百戰々疲れて巳れも亦其弊を受け自他共倒れの有樣に陷らんとするよりして此程に至りては世間既に競爭の弊を厭ひ更にシンジケーションなる方法を工風し同種同類の商人商社互に連合共同し共に利し共に益するの風となりて商賣社會の面目を一新せんとするは世人の知る所なり、國交際の事情も亦斯の如し彼の列國政府が年々歳々に増加する傭兵の費用の莫大なるより競爭政略の弊に堪へずして扨ては各國相談の上、政略上に近來流行のシンジケーションを適用したる者にあらざるか若しも然らば列國間の關係は是より靜穩に歸して歐洲の平和の爲めには誠に祝す可き次第なれども更に端を改めて其結果の如何を考ふるときは窃に寒心に堪へざるものなきを得ず顧ふに歐洲の中原暫く無事にして各國ともに大に兵を備ふるの必要なきの日に至らば年來戰爭の爲めに養成したる鬱勃たる雄心は抑へんと欲して抑ふること能はず英雄脾肉の嘆に堪へずして或は其餘力を東洋に伸べんとするに至るやも計る可らず例へば露國のサイベリヤ鐵道の如きも明年より着手し漸を以て落成す可き筈の由なれば一旦減兵の議、决するときは直に其費用を鐵道の敷設に移用して落成を急ぎ力を東洋に專にすることを得べし其他獨逸なり佛國なり競ふて其餘力を東洋に用ひんとするに至ることもあらば先年の東京事件以來暫く無事なりし東洋の閑天地も永く其閑に安んずること能はざるの時機遠からずして到來するも圖る可らず兎に角に露國減兵の一報は我々東洋人が大に注意を要するの一警報なる可し