「 誣ひらるゝ勿れ 」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「 誣ひらるゝ勿れ 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 誣ひらるゝ勿れ 

市に虎ありとの報告も再三耳に達すれば遂に之を信ずるに至るは古今世人の常態なり

有形の事さへ既に然り無形の事は尚更然らん聲の大く高くして勢の鋭く烈しきものは馬を鹿なりと云ふことを得べく代言流に言葉を構へて身勝手の事實のみを並べるものは鷺を烏と爲すことを得べし人或は云ふ虚報誤傳は早晩必ず聰明の耳目に觸れて霜融氷解するの日あり天定まりて人に勝つの道理爭ふ可らずとて強ひて自から慰むる者もなきに非ざれども天は何れの日に定まる可きや現在曲を蒙りながら黙して天定まるの日を待は决して智者の事に非ざるが如し人能く天を定む可し、天の自然に定まるを待たずして人力以て人に勝つの工風を爲すこそ文明男子の所業として我々日本人の共に盡力す可き所ならんのみ聞くが如くなれば横濱居留英國人等は近頃本國政府にて我外務大臣より提出したる新條約改正案を承認するの樣子ありとか傳聞して過日同港居留諸外國人を集め改正案中の箇條に就き不同意の决議を爲したりと云ふ抑も在横濱の外國人は所謂移住商人にして其千里を遠しとせずして遙々我國に來りしは固より仁義の爲めに非ず利を語りて利を得れば夫れにて滿足する者にして其眼中に映ずるものは利益の一點より外ならざれば條約改正の結果に因り金城鐵壁と頼みたる治外法權を破らるゝを見て黙止に忍びざるものならん其私情に於ては如何にも然る可き筈にして我輩は彼の不同意を唱ふるを見て之を怪まざるのみならず若しも不同意を唱へざれば却て之を怪しむ程の次第なれば英國政府の外交官とても是等私情的の故障の爲めに條約改正を英斷するの明を蔽はるゝの恐れなかる可し抑も彼の英國政府にて我新條約改正案を承認するの樣子あり云々とは唯横濱居留英國人等が傳聞のまゝ大に驚愕したる所にして其事の眞實なるや否や未だ知る可らずと雖も若しも果して眞實ならば英國政府は從前に鑑み今度は自から主唱者と爲りて時勢の切迫、到底爲さゞる可らざるの條約改正を爲し一方には國交際上の義務を盡くし一方には日本人民の歡心を結ばんとする者にして英國國家の大計に關する事柄なれば僅に横濱の居留人等が私に多少の不平論を唱へたりとて由て以て本國大政府の方略を動かすに足らざるは固より論を俟たず特に近來英國中にて獨立公平なるタイムスの如き、機敏果决なるデーリー テレグラフ の如き紙上に椽大の筆を揮ふて速に條約改正を實行せざる可らずとの説を極論したる程なれば正々堂々の手段を以て我條約改正を妨く可らざるは固より言を待たざれども此際我輩の憂慮する所は彼れ居留外國人等が治外法權を維持せんとして其理由を構造するに動もすれば事實を誣ひ針小を棒大に言ひ觸して虚報誤傳を聲高く其本國に反響する事即ち是なり現に近日の事なりとか横濱引取商人中にて綿布類を外商に注文したるに其後銀貨の大變動に因り注文品の價、下落したれば引取商は外商に對して其直引を申込みたるに外商は要求に道理あるを以て不平ながらも幾分の直引を承諾したれども之を承諾する代りには着荷匇々猶豫なく其品物を受取る可しとの言に引取商も速答に困しみ談判先づ以て中止と爲り居る由、然るに或る外字新聞は事仰々しく之を書き立て日本

商人の破信不實は大抵此くの如くなるが故に治外法權を撤去して日本法律の下に立たば我々居留外國人は此破信不實を甘受せざる可らざるの不幸に遭遇せんと言はぬばかりの口氣を示し之を記載したる新聞紙は特に多分に印刷して之を本國に送りたりと云ふ勿論今日の處にては内外商人の取引上に種々の情實習慣ありて雙方共に正則に據らざるものもあり例へば外國商人が一年若くは半年前より陶漆器等の製造を我商人に注文して其出來上りたる時に爲換相塲の變動などありて己れに不利なる塲合と爲れば苦情百出、其爲換相塲の差を我商人の損として其品物を引取るか或は何か口實を設けて破約を忍行する者さへあり我商人は之を怒りて領事裁判に訴ふるに百中九十九までは必ず敗訴と極まるが故に雙方其舌を二三にして取引上苦々しき慣行を養ふに至る誠に嘆はしき次第にして公平に從來の事情を見れば此取引上の惡慣行は外商の破信始めて俑を作りたる者居多なりと云ふ然るに今や時勢の切迫、條約改正の實行も漸く近寄り來らんとするに當り所謂臭きもの身知らずにて外商等の共に釀したる腐敗を擧げて恰も日本人のみに被せ己れ自から知らざる眞似するのみならず剩さへ之を證據物として日本の事情に疎縁なる本國人の感情に訴ふれば馬を鹿とし烏を鷺とし市に虎ありとの報告も衆口遂に金を鑠して我日本國の爲めに幾分か不利なしと云ふ可らず畢竟外國人は横字新聞紙を始めとし聲高く勢強く其報告を世界に配布するの手段を有するが故にして今の文明社會に立ち他人と是非を爭ひながら獨り此手段を欠くときは終世他人に誣ひられて陳情雪冤の機なかる可し目下我國の如き條約改正と云へる大事件を抱きながら海外諸國の人に對して陳情の手段を求むることなく漠然として過ぎ去りたらば現に曲を蒙りながら黙して天定まるの日を待たざるを得ず當局者の大に思慮す可き所ならんなれば我輩は今日の如き塲合に當り特に一言して猛省を乞ひ其手段の細目に就ては別に卑見を陳ずる所あらんと欲するなり