「土耳其に使節を遣て條約を訂結す可し」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「土耳其に使節を遣て條約を訂結す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

土耳其に使節を遣て條約を訂結す可し

此度土耳其軍艦エルトグロールが紀州大嶋沖にて沈沒し大使オスマン パシャを始として乗組の人員五百八十餘名溺死したりとは實に聞くに忍びざる惨報にして世界の歴史に於ても斯る大災難は其例多からざることならん世上誰か此報に接して酸鼻せざる者あらん殊に右エルトグロールは土耳其皇帝が遙に我日本の國情を觀察せられ近時大に面目を改めて東洋の極端に一新文明國を造り出したりとの事實を欣慕し給ひ特に大使に命じて彼國最上の勲章を我天皇陛下に捧呈する爲めに差立てられたる軍艦なれば假令へ天災とは申しながら此船が我國の沿岸にて破碎沈沒し艦員の大數を魚腹に葬りたりと聞ては我日本人民が殊更に氣の毒に思ふも人情に於て當さに然る可き筈なり然りと雖も沈みたる船は又浮ぶ可らず死したる人は再び生くることなし徒に過去の災難を追想して歎き悲むも甲斐なきことなれば唯此上は我國が右罹災者に對し又土耳其に向て如何に所置す可きやの問題のみにして我輩が世人一般と共に考ふる所にては差向き右軍艦乗組員の生存者六十餘名の人を手厚く介抱慰勞すべきは勿論のことにして既に我政府も人民も此事には充分注意したるものゝ如く彼生存者が目下神戸に在て同地の官民より一方ならざる厚遇を受けつゝある樣子なるは我輩の甚だ滿足に思ふ所なり次に此人々を其本國に送り返すことに就ては過日の時事新報に記したる如く我國より特別に軍艦を彼國に派遣して之に六十餘名の人を載せ始終深切に待遇して本國政府の許まで護送すること當然の國禮にして一は以て彼の國官民の心を滿足せしめ一は以て我日本國人の仁惠禮儀の周到なるを廣く世界中に發表するの好機會なれば此機空ふす可らずとて我輩の熱心主張する所なりしに流石は外交に頴敏なる我政府にても既に其議に決したるよし是亦我輩が世人と共に政府の擧を贊成して國光の爲めに祝する所なり扨又我輩に於て爰に一種臨時の希望ありと申すは此度右遭難者を本國に送り返す爲め軍艦を派遣するこそ好機會なれ此軍艦に我日本國の使節を載せて土耳其に至り日土兩國の訂盟條約を結ばしむること即ち是なり聞く所に據ればオスマン パシャは此度使節の命を全ふして歸國したる上は本國政府に上奏し明年新軍艦に乗て再び日本に來り日土兩國の和親條約を訂結する積りにて人にも此事を語りたることありしと云ふ左れば今我國より使節を遣り彼の首府に於て政府と談判を開き首尾よく和親の條約を結ぶことを得ば故オスマン パシャの素志を達するものにしてパシャの霊も地下に滿足することならんか、但し國交際の事は固より人の感情を以て左右する可きにあらざればパシャの素志云々は餘計の談として單に我日本の利害如何の點より觀察するに土耳其に使節を遣て條約を取結へば今後彼我人民の往來通信、國産物の有無貿易に便利なるは申す迄もなく別に又我國威に關して一大利益あるを見る可し抑も我日本が西洋諸國と和親通商の條約を結びたるは米國の水師提督ペルリの渡航を始として今日に至るまで訂盟の國々少からざれども常に先方の國より促されて條約を結びたる姿にて我國は受身の地位に在ることなれば世界の公評或は日本國は自ら進て西洋諸國と交を結ぶことを欲する者なる哉否を疑ふ者も有らん歟誠に遺憾千萬のことゝ云はざるを得ず然るに今我國の軍艦が旭日の旗章を飜してコンスタンチノープルに至り土耳其政府に條約訂結の事を申込みたらば右等の疑惑も忽ちに解け日本は眞に國を開て外國と交際貿易するの利益を知る者なりとて日本の使節渡來の事は忽ち歐洲の大評判となり我國の名聲に重きを加ふること盖し少々ならざるべし又土耳其政府に於ても態々オスマン パシャを我國に遣て天皇陛下に勲章を贈呈したる位なれば其我日本と永く親交を結ぶの意あるは疑ふ可らず加之今般エルトグロール遭難者の取扱にも我國官民共に力を盡して之を優待したる其景况を聞かば必ず我國と和親條約を結ぶに異議なかるべし盖し先に彼より我天皇陛下に勲章を捧げたる其挨拶として我よりも亦使節を送り和親の條約を結ぶと云へば事の順序も當を得たる姿にて土政府に於ても必らず滿足に思ふことならんと我輩は確信するものなり此事に就ては固より當局者の意見の存することならんと雖も我輩は今日我國の名聲を西洋諸國に轟かすに斯る好機會あるを見て黙々に附する能はず聊か卑言を呈して識者の教を乞ふのみ