「道理に訴るよりも民情を察す可し」
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時事新報に掲載された「道理に訴るよりも民情を察す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
道理に訴るよりも民情を察す可し
今の世界は道理の世界にあらず人間萬事七八分の情に二三分の道理を調合し僅に曖昧の間を通過して以て無智頑陋者の秩序を維持し以て少時間の安寧を保つの習ひなれば政治上に於て最も大切なる輿望を収るに就ても其政治家が道理の數を根據にして黒白の異同を論ずるよりも人情の向る所に投じて進退するこそ肝要なれ世界古今の歴史に徴して明に其例證を見る可し左れば今日我國に於ても國會の期に迫り開塲の上は民心の向背如何とて世間一般これに注目する其中に政府にては準備に怠らず歳計の報告を始めとして諸法律規則條例の發布等孰れも國會議塲に國民に對して答辨説明の要に備へ千百の難問に逢ふも即答に窮するなきの用意は既に備はりたるものゝ如し又一方の人民に於ては政務調査と稱して頻りに施政上の事實を吟味する樣子なれども固より不慣の事にして十分に行届く可き筈もなければ議塲に於て官民相對するときは政府の方には恰も乗ず可きの釁なきのみならず假令へ多少の落度あるも人民の方にて調査不行届なるが爲めに討論に於て政府の窮することなかる可しと我輩の信ずる所なれども若し或は然らずして政府と國會との間に調和を失ひ雙方の向ふ所相互に齟齬することもあらんには其齟齬は道理に生ずるに非ずして國民の情感に發するものなりと視ざるを得ず即ち其情感とは國民全體貧困の地位より政府の筋の洪大華美を望視て徳義上に之を咎め又隨て之を羨むの私情ににして一度び此羨望の情を發するときは如何なる道理論も身に入るを得ずして是にも非にも唯反對を試るのみ政府の身と爲りては甚だ迷惑なる次第なれども天下の民心斯の如しと云へば之を如何ともす可らず抑も人事の外面を皮相すれば日本社會は既に文明開化の域に達したるが如くなれども斯民や封建の素朴率直に生々したる者なれば日に文明の磊落豪奢を言ふも其心に信ずる所は素朴卒直の教あるのみ即ち天下人心の赴く所にして苟も此教に從ふ者とあれば其才能の如何に拘はらず社會に對して多少の重きを爲す可し例へば今の有志者と稱する壮年輩が衣食粗にして貧寒に苦しみ之を一見して下等の人民たるを免かれざれども心事さへ高尚なれば金衣玉食の貴公子と齢して愧ぢざるのみか却て之を凌駕するの勢あるは天下の人心尚ほ未だ古風を脱せざるの事實を見る可し在昔西郷隆盛翁が天下に大名を轟したるは翁の英才これと爭ふ者なかりしが故ならんと雖も我輩を以て見れば翁の長所少なからざる其中にも絶倫無比と稱す可きは其心事の卒直にして生活の素朴なりしもの是れなりと云はざるを得ず假令へ西郷翁の才の美あるも又勇氣あるも豪奢虚飾の風あらしめなば人心を得ること彼の如くならざりしや明に知る可し是等の事實にして違ふことなくんば現今我政府の局に當る人々は其政治上の才の美を別にして唯生活の程度如何の一方より論じ輿望を博するに足るや否やと尋ねて我輩は容易に答ふること能はざる者なり顯紳の榮譽既に大なる其上に、居るに官宅の壮大なるあり、出るに車馬の盛なるあり、一夕の宴會に千金を散して中人十家の産を空ふしたりとあれば田舎漢は之を傳聞して驚かざるを得ず然るに今の國會議塲に在る議員等は此田舎漢の投票に依頼して出身したる者なれば兎にも角にも投票者に對するの義理に於て斯る政府には反對せざる可らずとて政務の利害を勘辨するに遑あらず唯地方への申譯に漫に異説を唱ふることはなかる可きやと我輩の竊に心配する所なり此邊の事情に就ては當局者も既に思案を運らして必ず臨機應變の腹案はある可しと雖も更に一層の注意こそ願はしけれ全體事の中庸を云へば文質彬々として初めて文明の君子たる可ければ外面文飾豪奢必ずしも咎む可きに非ず西郷翁の質朴一偏必ずしも學ぶ可きに非ざれども如何せん日本の文明の程度は正さに翁をして大名を成さしむるの時代にこそあれば現政府の當局者が天下の人心を籠絡して國會の平穏を助け以て自家の功名を成さんとならば萬全の良策として西郷隆盛翁の卒直質朴を學ぶ可きものなり