「日本工業の危急」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「日本工業の危急」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本工業の危急

東洋僻隅の日本國も今や開國外交して文明諸國に仲間入りしたる以上は最早文明海中の一國にして此海中の波瀾に就ては萬端影響を受けざるを得ず例へば北米合衆國にて彼の銀貨案を實行したるが如き數千里外の外國に起りたる事柄なれども米國の如き大國が其經濟上に大變動を起せば我れ亦非常の影響を蒙り日本の商工業上に困難を感ずること一方ならず誠に不時の災厄なれども同じ文明海中に鯨の躍るあれば鯖の迷惑すると一般、是れ亦是非もなき次第なりと云ふ可し左れば文明海中に在りて其波瀾の激動に應じ首尾よく之を潜り抜けて國に損害なからしめんとせば世界経済上の現象を察して事前に後日の大計を定め時來りて徒に狼狽せざるの注意あらんこと何事に附けても必要なる可しと雖も今日燃眉の急として殊に注意す可きものは世界金銀價の大變動を始め其他各種の事情の爲めに我日本國の工業上に危急存亡の大難を來す可しとの恐れあること即ち是れなり抑も我工業の起りたるは明治十九年頃一時不景氣の反動にて金融緩慢利子下落の外觀を呈したる折柄その低利の金を使用せんとして人心之れに傾きたるの結果にして其極點に至りては見込もなき工業にても爰に會社を組織すれば其會社の株券は拂込價格に幾倍して之れが株主たる者は方外の奇利を得たるを以て株券熱は次第に騰り會社は益々增加したりしが扨て此會社に用ふる器械は紡績、製紙、鑛業、鐵道等を始め總て歐米より買入れざるを得ず即ち人を彼の國に出して前後買入れ來りし者は其數固より莫大なれども當時銀價は下落の極端、倫敦參着三シルリング前後なれば仕入萬端不慣れの爲め徒に口錢等を取られて割合に高直の者を買ひたる上に爾來銀價は騰貴して之を前年に比較すれば殆んど二三割方の相違を生じたるが故に今日七八十萬圓を以て買入る可き器械類を百萬圓左右にて買入れたるの姿と爲り啻に器械類のみならず此器械仕入れの爲め歐米諸國に派遣したる技師、通辨、役員等が旅行雜費として使用したる者も亦決して少小ならず兎に角に全體上に於て非常の大金を要したる會社が漸く事業を開かんとする今日、恰も銀價の騰貴に逢ふて其製造物品は之を金貨に換算して非常に高直の者と爲り西洋金貨國の物品は日本の如き銀貨國に入りて其價割合に廉に我諸會社の物品は外國輸入品の大敵に對して容易に競爭す可らざるの勢を呈し今年一月以來今日に至るまで輸入の輸出に超過すること殆ど二千萬圓に達し其中凡そ一千萬圓は正銀にて既に海外に出でたりと云ふ勿論此超過額は本年前半季に於て南京米の大輸入あり然るに生絲貿易は銀價亂高下の影響にて充分の手合を得ること能はず現に横濱生絲の在荷は已に二萬五千梱に達して尚ほ容易に動かざる等の事情あるが爲めなれども其米と云ひ生絲と云ふに限らず凡そ何等の物品にても兎に角に出るものは出難くして入る者の甚だ入り易きは掩ふ可らざるの事實にして此變動に續生する工業社會の困難は固より容易の事に非ず斯くて工業の衰退に任じて徒に之を傍觀せば今日まで注入したる幾千萬圓の資本金も何時の間にか消盡し去り無數の會社も一ツ潰れ二ツ潰れ所謂工業恐慌を生じて玉石混淆、全體〓棊倒しの勢を呈するの恐なきを得ず畢竟金銀價の變動に原因する者にして日本が銀貨國たる以上は彼の西洋金貨國に對して其爲換相塲上に間斷なく一上一下を生じ其都度彼我の貿易に損益浮沈を免れざるは勢の自然なるが故に今後米國銀貨案が成敗何れとか一定する迄は殊更急變を感せざるを得ず左れば近來經濟上に一種新奇の説を出して永く此不便利を救濟せんとする者あり今其説を聞くに近時金銀價の變動に因り我外國貿易上に言ふ可らざるの困難を蒙りたれども根本より之を斷絶せんと欲せば今日金貨の下落したるを幸ひ我日本國をして直に金貨國と變せしめざる可らず即ち日本銀行にて紙幣兌換準備金として庫中に貯ふる所の銀を悉く金に變換して同時に一片の布告を出し日本政府は今後金貨を以て兌換銀券に引換ふ可し云々と令すれば爰に我日本國をして金貨國たらしむ可き筈にして現に彼の準備金を凡そ四千萬圓と見積り其中二千萬圓ばかりは已に金塊なりと云へば唯この上は他の半分の銀塊を金貨に變ずる迄にして足れり即ち正金銀行にて外國爲換を取り集め倫敦若くは紐育にて金を受取りたる儘に之を日本に廻送すれば二千萬圓位の金を得るは決して六箇敷き事に非ず既に金貨國と爲りて西洋諸國と同樣に金を通用すれば其爲換相塲上に金銀價變動の危險を絶ち出入爲換の多少に由り時々小浮沈を生ずるに止まり雙方の商賣取引に萬端好都合なる可しと云へり此説少しく策士流の氣臭なきに非ざれ共今日我經濟貿易上の安固を謀るには實際この策を採用せざる可らざる歟印度支那を始として東洋諸國は何れも銀貨國なるに日本が同じ東洋中にて今より獨り金貨國と爲りて永く不都合なかる可き歟我貨幣政策上に百年の大計を按ずる者は此邊の利害得失に就き充分研究を凝すこと固より大切ならんと雖ども斯かる巨大なる問題は一朝一夕にして定む可きに非ず左れば今日工業の危急、目前直接に差迫りて其救濟策を講ぜんとするには事態の餘り大ならずして人の奮發如何に因り至急實施す可き題目を先にし前後緩急を辨ずること最も必要ならんなれば我輩は更に一歩を進めて追々此等の題目に論究せんと欲するなり