「工業上の便利を與ふ可し」
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時事新報に掲載された「工業上の便利を與ふ可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
工業上の便利を與ふ可し
米國銀貨案を實施して世界の金銀價を變動してより日本の如き銀貨國の工業品は他の金貨國の物品に對して割合に其價を增加し輸入は易くして輸出は難きの勢を呈したるは我諸工業に取りて一時最難の厄運を云はざるを得ず勿論今日の處にて彼の米國銀貨案は其實行永久す可きや如何、世人の疑惑する所なれども之を發案したるは彼のシルヴァーメンと稱して銀塊を所有する者の爲めに一時銀相塲を騰貴せしめて奇利を得せしめんとするのみに非ず米國は商業國と云はんより寧ろ農業國と稱す可き物にて同國物産の重立ちたる者は悉く農産物ならざるなし而して此農産物は英國を始め歐洲諸國に輸出して常に販路を彼の市塲に得たれども是れより先き數年來銀貨頻りに下落したるが爲め銀貨國の物産は金貨の國に輸入して其價頗る廉に印度その他の農産物は木綿玉蜀黍等を始め何れも歐洲市塲に入りて米國の農産物と競爭し終に之を壓倒するの勢を呈せり而して此勢を呈したる起原は彼の金銀價の差違にして今若し銀の下落する反對に其直段が騰貴すれば東洋銀貨國の産物は歐洲金貨國に入りて割合に高直の者と爲り米國の農産物も從來の如く販路を歐洲に保つことを得べし即ち銀貨案を實施して世界の銀相塲を騰貴せしめ米國中に勢力ある銀師の希望を滿足すると同時に一般農業家の利益を保護して國の根本を固めざる可らずとは是れ米國經濟家が銀貨案を實行するの動機にして畢竟國の根本たる農産物を保護せんとするの趣向なれば假令へ多少の困難あるも俄に同案を中止して銀價の復舊に任ずるが如き米國人の爲すに忍びざる所ならん左れば我諸工業の困難も其銀價の變動より起れるものは俄に除き去らざることならん此際如何にもして危急に應じ又厄運に耐へんとするには國民全體同意して工業保護の方法を講じ差向き日本人たる者は其官民何れを問はず内國製造品を用ふること恰も一種の義務と爲し例へば陸海軍を始め其他諸官省に於て羅紗、綿布、〓〓、紙類等を需要する時は假令へ其直段に於て些少の相違を見ることあるも先づ内國人に注文して成る可く外來品を用ひず内に製造會社なく又之を製造するも萬々不割合の物品丈けは海外の供給を仰ぐ可きも其他は悉く内國品に依りて内の工業を助るの旨を忘る可らず又此國の人々は物の價を比較して取捨賣買す可きこと當然にして之に内國品を用ふ可しと強て勸告す可きに非ざれども今我工業の危急を見て之を救はんとするの心あれば家屋を建築し諸器物も買入れ衣服飲食品等を注文するにも差したる利害不便を覺えずして日本品を用ゆ可き塲合甚だ少なからず唯平生の心掛けに存す可きのみ又其救護の方策中殊に有力なる可きものは我銀行社會にて全國諸工業會社に對する身代取調法を嚴密にし後來見込ある會社には充分の便利を與ふること是れなり從來我日本國には身代取調の方法なく商人相互に猜疑を抱きて取引上の不便少なからず例へば日本銀行にて今日一個人との取引を開かず擔保品などを以て金を同行より引出すものも單に會社に限り置くが如き抑も如何なる理由なりや一會社にても一個人にても身元確實ならんには颯々と之れと取引して銀行たるの本分を盡くす可き筈なるに然るに實際然らざるは日本銀行の筋に於て一個人の身元を究むることを為さず隨て之を信せざるが故なる可し誠に不完全の至りなれども今の日本商人に向て俄に完全を望む可きに非ず差向き一個人の身代を知ること能はざれば暫く之を他日に譲り會社の身元取調を以て先づ今日の端緒と爲し殊に諸工業會社に就ては充分調査を密にして此會社は何程の財産あり其會社は若干の負債あり現時の有樣は斯く斯くにして前途の見込は云々ならんと夫れ夫れ取調を終りたる上にて實地望みの多きものには其株券を擔保品と爲すにも其他の金融の助るにも萬端便利を與ふ可きこと固より言を待たざれども實地何の見込もなく失敗萬々疑なくして之を救ふも益なきものは初めより其運命に任ずるの外なし若しも然らずして婦人の仁を行ひ玉石を混淆して共に救はんとするが如きは却て共に碎けしむるの媒介たる可ければ金融の局に當る者は豫め此邊の事情を察し工業諸會社を鑒別して取引上にも心を致し實地營業に利益の見込あるものは之に相應の支柱を與へて今日の厄運を過さしめ目下工業凝嚴の候に乾坤愛育の心を寓して陽春新芽の崛起するを待つは甚だ肝要の事なる可し