「紳商の性質」
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時事新報に掲載された「紳商の性質」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
我日本國にては近來政治上の變化頻繁にして之に關係する商賣以下萬般の事情を變化する
もの多く從來御用商人など稱する者が保護と云ひ特約と云ひ官邊に求むる所あれば先づ一
二當局者に謀りて其承諾さへ得れば直に事を辨じたることなれども近々國會開設して商政
上の金策の如き殊に其評議を經べきに就ては事を謀るに多人數を要し酒色を挾み幇間を學
び一夕の饗宴を利用して特別の保助を得るが如き容易に行はれざることならん即ち今後の
紳商は實業大體の智見を具へ士君子の間に出入して正々堂々議論を上下せざる可らざるが
故に所謂紳商の性質に多少の變更を來す可きは自然の勢ならんと雖ども凡そ日本の國と爲
り世界の大に比較すれば土地は狹くして人口は却て多く財源未だ究めずして商賣殖産の道
至て少なく多年封建の遺習として政治を重んずること甚だしく商賣以下の人事は都て政治
に支配せらるゝの有樣なるが故に此小國の社會に在りて何か商賣上に利する所あらんとす
るには權勢ある政治家に依ョして所望を達するの外ある可らず或は國會開設して政局に當
る者は獨り政府のみに非ず數多の代議士も之に參與することなれば人は多くして事は公け
と爲り之が爲めに彼の特別情實の沙汰も次第に減少す可きに似たれども所謂紳商の方より
云へば從來少數の當局者に内話したるものが更に多數の政治家に依ョする迄の事にして其
身を卑くして哀を乞ふの事情は依然として舊に異ならず到底獨立の體面を維持するの難き
は亦是非もなき次第なる可し左れば我國の商人が狹き内地に局促して變則商賣に從事する
間は商人社會の獨立獨行、萬々望みなきが故に今後我商人中に有志家ありて日本に眞成の
紳商を出さんとせば唯外國貿易に因りて其身を立つるの外に道なかる可しと我輩の信ずる
所なり今我商人が眼界を廣めて内地の商賣のみに局促せず更に外國貿易の事に着眼すれば
其區域廣大無邊、賣買の相手は外國人にして我れは日本帝國の一商人、彼れは歐米某國の
貿易家、兩々相對して獨立對等の勢を成し商賣の盛衰、利害の厚薄は唯品物の良否、價の
高下に在るのみにして决して平身低頭するに及ばず决して追從輕薄するに及はず斯く文明
流の商賣を行ひ之に由て相應の利uを占むることを得ば其利uは决して水泡に非ず浮雲に
非ず官邊の保護をョむに非ず顯紳の私恩に依るに非ず身外の外人に對しては恩もなければ
怨もなく我れは獨立商人として高く其位地を守ることを得べし蓋し英國の商人などが位地
高く權力多くして商工業上の事に就ては决して政治家の專斷を許さず凡そ此向きの法律規
則其他重要の事を决するには一々商人の意見を聞て始めて之を實行するが如き勢を成した
るは商人が外國貿易を營み政府の恩惠に因らずして獨立に身を起したるが故ならん自治の
根性骨に徹して吾れは我手を以て爲す可らざる者なしと信じ氣根強く其志操を守りて終に
自から之を成就するの特性は英國人の固有とも云ふ可き者にして此一義に至りては他國人
の企て及はざる所あるが如し例へば英國の殖民地は印度並に濠洲を始め世界各地に散在し
所謂日輪英領に沒せずの諺ある程なれども此廣大なる殖民地は當初英國の商民が通商貿易
の爲めに移住して次第に其商賣を開くと同時に次第に土人を制御して次第に其權力を養ひ
往時彼の東印度商社が英國商民の集合なるにも拘はらず隱然印度併呑の勢を開きたるが如
く商民先づ殖民地を拓きて商館を起し市街を作り一個の都市を成すに及んで政府は後より
之を助け頓て時機を窺ふて軍艦兵卒威武を示して遂に之を英領に歸するの順序にして商民
先づ之を開て政府追て之を領するは英國殖民地開拓の常筆法なれども佛國の如きは之れに
異なり政府先づ兵力を以て某の國土を侵略し官衙を設け吏員を置き本國人の移住を奬勵し
たる處にて商民始めて出張するやうの都合にして英佛二國の殖民制は得失同日の論に非ざ
れども是れは暫く他日に讓り今商人の氣力品格上より云へば自から政府に先んじて商賣の
區域を海外に廣め自治獨立と覺悟して政府の厄介たるを甘んせざること眞成紳商の事なり
と云ふ可し抑も金は權力なりとは人の能く言ふ所なれども其金を自力に得ず他の政治家な
どの力を假りて始めて得ることあらんには現在金を得たる者よりも之を得せしめたる者が
一層の權力を有すること即ち勢の自然にして彼の佛國商人の如き海外殖民商賣に就ても其
政府の力を假ること實に彼れが如くなれば内國商工業の趣も亦自から窺ひ知る可し近頃在
巴里の倫敦タイムス通信者が佛國政府は萬屋なり汝、鐵道を得んとすれば政府に向て其利
uの保證を乞へ汝、學校を要すれば政府に設立を促す可し汝、鐵道馬車を敷かんとすれば
政府に敷地の周旋を請ふ可し誠に調法なる政府なれども其政府は安直の政府ならざるのみ
か此政府中の人が自然に威b恣にするに至るは免る可らざるの數なり云々と評したるは
穿ち得て甚だ適切なりと云ふ可し歐洲文明の中心と稱する佛國の内情すら此くの如し况し
や我日本國の如き所謂官尊民卑なる者殆んど一般の通弊にして政治家と商工家との間柄に
は一層甚だしきが故に今後我國の商人が眼界を外國貿易に開きて斷然内の官邊と私の關係
を絶ち自力に獨立するの覺悟なければ假令へ政治上に變更ありて請托依ョの弊風を減ずる
も所謂紳商の性質は依然虎皮羊質にして官尊民卑を一掃し尚商立國の實を擧ぐること斷じ
て其望なかる可きなり (完)