「多額納税者議員に望む」
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時事新報に掲載された「多額納税者議員に望む」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
貴族院中に於て一種の特色あるものは多額納税者互撰の議員なり皇族あり華族あり又は勳勞學識の勅撰者ありて貴族院は純然たる貴族の本色を備ふる其中に多額納税者のみは各地方の農工商業者中より出でて自から國中の實業を代表する特殊の地位に在るものなれば我輩は之に就て又特殊の所望なきこと能はず昨今は議會開塲の期日も切迫したれば貴衆兩院の別なく各議員は政務の調査又は黨派の去就など何れも心身を勞して餘日なきことならん多額納税者議員の如きも亦議會中の人にして而も榮譽ある貴族院に列して其責任も輕からざることなれば此際に當りて亦夫夫の覺悟あることならんと雖も我輩の所望は其覺悟の種種なる中に就ても議員諸氏が常に實業の代表者たる地位を忘れずして貴族院中に永く其特色を守るの一事に在り均しく一院の議員たる以上は其務むる所の同一なる可きは勿論なれども人おのおの長ずる所あり他の所長は之を其人に任じて我は自から我所長を務むるこそ自他の便宜なる其上に况して責任の輕からざる事柄に就ては益す益す此事の肝要なるを見る可し左れば今院内に事を議するに當りても政治法律の種類にして條理綱目の入込みたる事柄なれば其調査討論は兼てより其道に經歴あるか若くは學識ある議員に一任し多額納税者議員たるものは唯傍より之を可否するのみにて妨なしと雖も實業の利害に關する議事に至りては其院に起りたるものと若しくは衆議院にて議决したるものとを問はず自から任じて其事に當り之を國内の事情に照らし之を實際の利害に徴して侃侃諤諤他を憚ることなく自家の所見を主張して議會を通過せしむる程の實力を養ひ以て國中農工商業の代表者たる特色を顯さんこと我輩の偏に希望する所なり然り而して既に實業の代表者として之を見るときは其一身の私に就ても亦聊か所望なきにあらず貴族院の議員と云へば其出處の如何を問はず均しく勅任の榮を擔ふものにして其身分の尋常ならざるは云ふ迄もなく世間普通の例として交際上の事總て其身分の高下に應ずるの常なれば民間の實業家中より出でたる者にても尋常ならざる地位に在る以上は或は衣食車馬邸宅より音信贈答の事に至るまで外部の事物自から民間素朴の舊慣に安んずること能はざるの事情もあらん敢て咎るに足らざる事なれども戒しむ可きは其交際上の有樣の變ずると共に心事も亦一轉して俄に貴族風に化するの一事なり交際の事は銘銘の身分と身代とに相應するものなれば如何樣に變ずるも差支なしと雖も例へば封建時代の百姓町人が藩士に成上りて俄に侍振ると同樣、一朝貴族院に入りて外貌精神ともに忽ち貴族風に化するは决して實業を代表する議員の本分にあらざれば院内に於ては云ふまでもなく院外の私に於ても常に全國實業の代表者たる實を忘るる勿らんこと我輩の切に望む所なり