「國會の前途」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「國會の前途」(18901210)の書籍化である『国會の前途・国會難局の由来・治安小言・地租論』を文字に起こしたものです。

本文

福澤諭吉 立案

男一太郎 捨次郎 筆記

日本の政體を立憲に變じて國會を開設するは開闢以來の一大變動にして前途の安否如何とは目下我國の大問題たるのみならず此風聞夙に外國に傳播してより兼て日本の事に無頓着なる外國人にても其立憲政體國會云々の談に至りては之を聞いて等閑に附するを得ず彼の識者の説に西洋諸國に行はるゝ民議の政風は都て歴史上の因縁に由來し幾百年の治亂興廢の間に發達して今日こそ始めて其體裁を成したるものなり否な、尚ほ未だ成らざるものさへ多し然るに今東洋の一國人にして西洋文明の風を見たるは僅に三十餘年、其國こそ古國なれ文明の點より見れば至極幼稚なる者共が俄に君主專制の治風を改めて君民同治の立憲を學ばんとするも口に云ふ可くして事に行はる可らず國會も亦唯日本國人一時の政熱病にして偶ま以て其國力を損するに足る可しと云ふ者あれば又一説には近年日本國の進歩は異常の數にして事々物々都て人意表に出でゝ殆ど不可思議なれば其政體の變革も或は不可思議の中に成ることある可し若しも日本國にて首尾よく此大事を成就することもあらんには其事は單に日本の利害のみに非ず西洋諸國の學者は斯る意外の成跡を目撃して恰も古來未曾有の例證を得るが故に遂には之が爲め彼の學者社會に政論の面目を一新することもある可しとて兩者の云ふ所孰れが是か非か之を決すること難く時としては日本國會の首尾不首尾を卜として賭にする者さへありと云ふ

我輩に於ても固より先見の明あるに非ず之を豫言すること難しと雖も我日本社會の歴史を詳にし其政事人事の由來に照らして國會の前途を推察するときは必ずや上首尾なる可しと斷言せざるを得ず抑も立君專制の政體と立憲の政體と相異なる所を云へば君主一個人の心を以て萬機を統御し萬機を左右し君主の心即ち法律にして君心の變化するあれば法律も亦變化し法は明君と共に明にして暗君と共に暗く國民の身と爲りて之を視れば明法の治下に安堵する間もなく又暗君に統御せられて生を安んずるを得ず安危計る可らざる其中にも危懼の念は常に去るを得ずして萬民恰も僥倖の間に生々するもの之を立君專制の實相と云ふ歐羅巴徃古の歴史は姑く擱き近くは支那朝鮮の如き純然たる專制の政體にして君心の明暗は忽ち一國民の安危に影響し時として國民皷腹の幸福あれば又忽ちにして塗炭に苦しむことあり古人が治國の要を説くに先づ君心の非を正すと云ひしも謂れなきに非ざるなり之に反して君民同治立憲の政體に於ては一國最上の權を憲法に歸して國民の敢て之に違背するを許さゞるのみならず君主と雖も之に背かざるを約し恰も君民の間に一種絶對の權力を安置して雙方共に其制裁を受るの姿なれば雙方共に其思ふ所を逞ふす可らず君主と國民と相對して一方に伸る所あれば他の一方に縮む所なきを得ざるは自然の數理なるに立憲の政體に於ては雙方共に意の如くならざるが故に雙方共に極度の得意もなく亦極度の不平もなく正に其中庸に位して政治運動の平均を得るものなり既に君主に絶對の權力なくして自由自在ならずとあれば政事に關して仁君も自在に其仁を施すを得ず暴君も恣に其暴を逞ふするを得ず國君の明暗仁不仁は立憲と共に效力を薄くして國民の身と爲りては非常の恩澤に浴することもなき代りに亦非常の災難を被るの憂もなく苦樂平均の間に自力を以て自家の快樂幸福を求む可きのみ西洋立憲の國々に時として明君あり又凡庸の君も多しと雖も其國勢に差したる影響を見ざるは立憲の政體既に數百年の習慣を成して君主も知らず識らずの間に自ら抑制し國民も亦多を求めずして自治の分に安んずるが故ならんのみ

左れば今西洋諸國の識者が我日本國會の前途に不首尾を期し又或は然らざるも其首尾を不可思議の僥倖に歸するは我立憲の政體を三十年來速成のものと認め從前何等の素因もなき土地に西洋文明の種を蒔き忽ち成長して忽ち實を結び西洋人の心に想像する彼の君主專制の政より一蹶して立憲に移ること俳優の演劇場に老少速替りするが如く假面を被り又脱するが如く餘り無造作なりと認めて扨こそ疑念も生ずることならん如何にも無理ならぬ次第にして主人たる日本人に於ても遽に近年の事態を皮相すれば自から驚く者なきにあらず然るを況んや利害少なき外人に於てをや之を怪しむは尤も至極なれども爰に我輩が日本國に固有なる政事人事の由來を略説し數百年來歴史の文面外に行はれたる事實を明にしたらば或は内外識者の心に釋然として我立憲政體國會開設も偶然の僥倖ならざるを發明することある可し左に之を開陳せん

内外の識者が我國會の前途に不安の念を懷くは樣々に見る事ありて然るものならんと雖も之を要するに東洋流の立君專制を脱して俄に西洋流の民議風に變ずる其劇變は人間の堪ゆ可き限りに非ず人事の極端より極端に移るものにして其間には何物か必ず相衝突して安寧を害することなきを得ず冬より春に移るは可なりと雖も嚴冬盛夏一夜の間に變化するが如きは人身の堪へざる所なりと云ふの意味ならん我輩能く其の意を了解したりと雖ども古來我日本國の政治は果して字義の如く純然たる東洋流の立君專制にして實際に君主一個人の意を恣にしたるものなるや國民も亦その專制の下に蟄伏して曾て自治の精神なかりしや特に學者の注意を要する所のものなり我輩の所見を以てすれば日本は其國土こそ東洋に在りて支那朝鮮と相隣すれども其政事人情は全く隣國に異なり外面の體裁は專制國に相違なけれども裏面に廻はりて内部の實際を探り之を知ること愈々詳なるに從ひ愈々其專制ならざるを發明す可し既に專制國の名ありて專制の實少なしとすれば他に治國の要素なきを得ず即ち其要素とは君民共に其意を逞ふするを得ず冥々の間に相互に制せられて各その分限に止まるの習慣にして法律の明文こそ簡單不完全に似たれども習慣の力は法律よりも強大にして之を敢て背く者なし之を所謂東洋流の專制に比すれば固より同日の論に非ざるの事實を見る可し往古の事は姑く擱き鎌倉以後徳川の治世二百五十餘年の間に益々此治風習俗を養成して其根本既に堅固なればこそ王政維新に引續き廢藩置縣の偉業も成り次で今日の立憲政體國會開設の擧に及びたることなれ左れば我國會は假令へ其體裁を西洋に學ぶも其精神の發達は由來久しくして一朝一夕の製造に非ざるを知る可し

抑も外國の人々が日本の治風を觀て東洋風の專制なりと云ふは畢竟我國の歴史國状を知らざるの罪にして固より咎む可きに非ず又我國人中にも往々同樣の觀を爲す者あるは怪しむ可きに似たれども是亦自然の勢にして自から因縁の存するものあり今其次第を述べんに元來王政維新の事たるや大義名分など樣々の題目はありしなれども詰り新政府の人は其反對者たる徳川政府を亡ぼしたるものより外ならず既に反對者を亡ぼすときは其舊惡を枚擧して自から自家の功名を發揚するも人情の常態又政略上の要用なれば凡そ徳川時代の事とあれば細大に論なく悉皆宜しからざることゝして勉めて其美を掩ふて惡を擧げんとする其時に當り偶ま西洋文明の輸入こそ幸なれ正面より徳川の治風習慣を審判するの標準に西洋の文明を以てし是れも政府の專横なり人民の卑屈なり其れも壓制なり無理なり因循なり舊弊なりとて恰も人間世界の惡事を擧げて舊幕政府の時代に歸し局部極端の弊害のみを摘發して會て全體の美に着目する者なきが故に遂に幕府時代の日本をして純然たる專制の治風東洋流の名を成さしめたることなり我輩は我日本國の爲めに千歳の寃を訴へざるを得ず我輩固より徳川の舊物に戀々して逆行保守せんと云ふに非ず否な、進歩開進こそ本來の目的なれども舊を知らざれば新を解す可らず今日の一大新事たる國會の開設も古來我國の政事人事に其素因あればこそ今日行はれて人心を驚かさゞることなれば其治風の由來を略説するは世務當局の學者の爲めに無益ならざる可し

歴史を案ずるに政權帝室を離れて武門に歸し萬機武將の專にする所と爲りて帝室は有れども無きが如しと云ふと雖も其實は全く無きにあらず武家に將軍宣下なければ其威望以て民心を繋ぐに足らず既に將軍宣下を必要なりとすれば武家の武力能く天下を制するに餘りあるも上に至尊の帝室を戴き其身は遙に下流に位せざるを得ず即ち雙方の不如意にして至尊必ずしも至強ならず至強亦至尊を望む可らず雙方共に得々たるを得ざるのみか武將の國民に對する政略上に於ても仰で至尊を見ながら下に臨むことなれば假令へ帝室は政治に關せずと云ふも將軍の身は自然に自から抑制して又特に民心を收攬するの工風なかる可らず北條の如きは自家の武力を以て天下を得たる者に非ざるが故に常に他の羨望を避けて爵位を求めず唯實權を掌握して天下を制し其位の卑き程に治風の美なりしは其身の地位と其權力と平均の宜しきを成し人民に對して專制ならざりしの證として見る可し左れば古來の武門政治を專制なりと云ふと雖も上に帝室の在るありて名分の爲めに多少の會釋なきを得ず自家の興廢は唯人心を得ると得ざるとの間に在りて存することなれば苟も國事を等閑に附することなく常に自から抑制して民に厚ふしたるこそ偶然の妙機なれ帝室は恰も武門政治の爲めに一種間接の刺衝物と爲り武門をして絶對君治の事を成さしめざりしものと云ふも可なり即是れ日本の歴史に秦の始皇隋の煬帝を見ざる所以なり上に絶對君治なければ下人民に於ても自から自治の餘地を遺し多少に運動す可きは睹易き數にして彼の支那朝鮮等の國民が活溌なる暴君の下に呻吟して曾て自動の何事たるを知らざるものに比すれば年を同ふして語る可らざるなり

徳川の時代に至りては更に一面目を改め權力平均の主義は唯政治上に行はるゝのみならず民間の細事にまで普及して國中一人として大得意の者なく又大不平の者もなく正しく其中庸の地位に在らしむるの趣意を以て社會萬般の組織をなし二百五十餘年の太平を維持し然かも其權力の平均は偶ま以て競爭の媒介と爲り國民の文事武事より百工技藝の末に至るまでも一として進歩せざるはなく人文の進歩と共に人民自治の風も次第に熟して國を治るに必ずしも絶對君治の要用なきを悟り遂に王政維新に次で僅に二十三年の今日國會の開設を見るに至りしは其素因久しくして特に徳川の治世に在りと云はざるを得ず萬國の歴史古く治亂少なからずと雖も人口三千萬の一國を治めて二百五十年の久しき國中寸鐵を動かさず上下おのおの其處に安んじて同時に人文を進歩せしめたるものは世界中唯我徳川の治世あるのみ實に絶倫無比の偉業にして其治安の大策果して徳川家康公の方寸になりしものとすれば公は啻に日本國の一人にあらず世界古今絶倫無比の英雄として共に功名を爭ふ者なかる可し、今其功名の一人に歸すると然らざるとの議論は姑く擱き兎に角に斯る偉業の成跡は徳川政府と共に消滅す可きものに非ずして後世に至り時勢の變遷に從ひ時機の宜しきを投合して遂に今日の國會をして其施設に容易ならしめたるの事實は掩ふ可らざる所のものなり抑も徳川の治世に權力平均の事情を述べんに宗祖家康天下を一統して元和元年十八箇條の標準なるものを禁裡紫宸殿に掲げ關東將軍は三親王攝家を始め公卿諸侯を支配し政道奏聞に及ばず治亂は將軍その責に任ず云々の旨を記し其末段に

右十八箇條の趣對君爲定目相立候は所奉恐也雖然蒙敕令今般武家政道國家泰平可爲理定目十八箇條可被懸紫宸殿候是則奉應敕令也

仍如件

兩院別當職

元和元年 家康在判

とあり家康公の智勇能く群雄を征服して實力既に手中に在り天下恐るゝに足る者なしと雖も如何せん朝廷に對しては臣と稱せざるを得ず前に云へる至強にして至尊ならずとは即ち此事にして將軍の權力も朝廷の爲めに平均せられて圓滿なるを得ず之を第一の平均として是より諸侯と公卿との釣合を見れば公卿は位高くして祿少なく諸侯は祿豐にして位卑し又古來支那朝鮮國の政府に於て政權を執る者は或は王族よりし或は外戚よりするの例少なからず即ち今日にて云へば支那は王族政府にして朝鮮は外戚政府なり其人の門地既に高き上に之に加ふるに執政の權柄を以てすることなれば執政者の得意は無上圓滿なれども往々之が爲めに弊害を生じて亂階を釀すことなきにあらず然るに徳川にては小臣執權の制を定めて將軍の同族は勿論、都て大諸侯の一類は幕政に參るを許さず家康公久能山寶藏入百箇條遺状の中に

惣て譜代の士多しといへども我古家三河以來の者を記し鳥居、板倉、大久保、戸田土屋、本多、榊原、石川、久世、阿部、加藤、此家々等なり此者共の子孫器量備れる者を撰み將軍の政務を司とらしめて老臣と稱す可し外樣の内假令へ働衆に越すとも此任に當申間敷事

の文あり鳥居以下の面々は大名中の小身にて十萬石以上の家は少なし俗に之を御投家と唱へて少しく才力あれば必ず老中に任ぜらるゝの例なり後世に至り或は他家にて老中たりし者もあれども必ず譜代の大名五六萬石乃至十萬石内外を限り何等の場合にても大老の井伊酒井を除くの外、大祿の家にて執權を命ぜられたることなし故に老中が政治上に諸侯旗下に接しては無限の權力を振ひ如何なる親藩又大諸侯にても之を左右進退するに意の如くならざる者なしと雖も扨その老中の家は僅に六七萬石の小諸侯にして彼十八大名大藩などに對しては實力に於て伍を成す可らざるは勿論、將軍の親藩尾州、紀州、水戸の三家より見れば老中の家柄は殆んど家臣に異ならざるが故に三家の大名が老中に進退せらるゝ其内實を云へば恰も主人にして家來筋の命に從ふの姿なれども政府の成規慣行は屹然として動かす可らず故に大諸侯は實力に於て老中の家を目下に蔑視すと雖も政權に於ては釐毫も之を犯す可らず老中は政權を以て大諸侯を御すること大人の小兒に於けるが如くなれども家の實力身分の一點に至りては遙に下流に位して之に近づかんとするの念慮もある可らず雙方共に強きが如く又弱きが如く愉快なるが如く又不愉快なるが如く其成跡は中央の命令常に能く行はれて執政者の跋扈したることなし平均の妙を得たるものと云ふ可し古來支那朝鮮人などの思ひ得ざる所にして之を發明したる者は東洋唯我徳川家康公あるのみ

又徳川の初年には日本の耕地も今日の如くならずして石高も少なし久能山百個條の中に

日本國知行の惣高二千八百十九萬石の内二千萬石令配當忠勤の大小名に八百十九廣の處知行の分(幕府直轄)に可備事

とあり左れば徳川政府は天下を三分して其一を領し他の二分は三百の諸侯に屬するが故に諸侯を一體として之に對すれば大小衆寡相敵す可きにあらざれども此諸侯を制御するの法も亦彼の權力平均對峙競爭の政策より外ならず例へば西九州の一隅に薩の強藩あれば之に隣して肥後の大藩を置き肥前藩と筑前藩と相接して傍に久留米あり長州の東に藝州あり土佐の隣に阿波あり又或は同族の家を二家に分つこと備前の因州に於けるが如く津山の越前に於けるが如く讃岐と水戸と宇和島と仙臺と忍と中津と何れも同族同姓なれども既に家を分てば互に基本末を爭ふなど樣々の内情を以て一致するを得ず東北にて津輕と南部との競爭の如きは最も甚だしきものなり斯く諸大名を國中の各處に配置して之に加ふるに要處には親藩を置き又諸藩地の間に中央政府直轄の領地を介在せしめて暗々裡に之を監督する等其注意洩らす所なく江戸に在る武家屋敷の配置に至る迄も之を苟もせず舊江戸圖を見る者は必ず其用意の緻密なるに驚くことならん左れば日本國中の諸侯必ずしも野心なきにあらざれども藩々相互に睥睨して相互に動くを得ず中央政府は特に力を要せず唯藩を以て藩を制するのみにして其状恰も自動機を監督するものに異ならず諸侯を御するの法大凡そ斯の如くにして又内に自家の政務を處するにも權力平均の旨を失はず例へば幕政最上の權は老中の手に握り參政の若年寄と雖も容易に喙を容るゝを許さず然るに目付なる者は老中に屬せずして若年寄の支配下に在りながら老中を彈效するの權を有し列座直に將軍に迫るときは老中も職を去るの法あり又目付の支配下に徒目付其下に小人目付あり小人目付は常に徒目付に隨從して事を執る小吏なれども此小吏には時として上役の徒目付を差置直に目付に面して事を具申し又徒目付を彈劾するの權あり又地方に派出する代官又は町奉行附屬の與力同心等は内々の收入多くして身分不相應の生活を爲す者なれども官吏社會にて等級甚だ低く體面甚だ卑しく何萬石を支配する代官にても江戸に來れば顏色なく勘定奉行などへ拜謁する其状は恰も君臣の如し與力同心も大番組書院番組と稱し武官に屬する者は何等の役徳もなくして生計常に寒しと雖も其地位は遙に町方の上流に位して自から得々たる可し凡そ幕府の政務組織に付き此種の細件を計れば枚擧に遑あらずいよいよ之を詳にしていよいよ平均主義の緻密周到なるを見るのみ中央の幕府に於て斯の如くなれば諸藩の政務も大同小異こそあれ其則とる所は幕政なるが故に權力平均の一事は數百年來日本國人の腦中に徹し又遺傳に存して政治社會に圓滿の得意なきを知らざる者なし俚諺に月に村雲花に風と云ひ詩に花有風雨夕の句あるは此邊の事相を寫したるものならんのみ

又幕府都内を離れて廣く士民の關係を見るに士族以上の勢力固より盛にして遙に平民の上に位し殆んど別人種の如くなれども殖産經濟の一事に至りては武家の關する所に非ず大なるは諸藩の歳計の如きも大概皆都會(殊に大阪)の豪商に托し金の入用あれば商人に借用して之を瓣じ返濟は領地の物産(十中九皆米なり)を以てし商人は約束の利子を收るのみならず其米の賣買に付き又江戸へ送金の爲替に付き一切その相場の權柄を執り政府の干渉を許さずして利する所少なからず或は大名の威勢を以て返濟の約束を破らんとすることあれば訴るに道なきが如くなれども豪商等の連合甚だ固くして苟も一商家に對して不義理したる大名あれば其大名は爾後一旦の急に金を借用せんとするも之に應ずる者なきが故に如何なる強藩と雖も金融の事に就ては恰も商人の制を仰ぐものゝ如し關西の諸大名が大阪の豪商を尊重し之を待遇するに士の禮を以てして扶持米などを授けたるの事例は今日尚ほ故老の記憶する所ならん是より以下士族の私に於ても其生計は唯世祿の知行扶持米のみにして曾て商賣を營むを得ず士族屋敷は無税なれども商賣は許されず又商人に貸して營業することも禁制なり小士族が手細工の内職することあるも字義の如く公然たらざる内々の工業なれば利益は常に商人に占められて之を如何ともす可らず且士族の本色は文武を勉むるのみ廉恥を重んじて利を言はずとの主義は累世の教にして恰も其天性を成し士族の身として竊に商品を賣買し又は金融貸借の事を行ふ者などあれば忽ち其社會に擯斥せらるゝの風にして甚だしきは家の富有を恥ぢて貧乏を誇る程の次第なれば商人の目より見れば士族等の身分榮譽は羨む可きに似たれども其生計の豐ならずして進退の窮屈なるは竊に之を憫笑して却て忌避するの情あり之を要するに日本社會の貧乏なる者は身分貴くして富豪なる者は賤し、富を爲れば貴からず貴を求むれば貧ならざるを得ず貧富貴賤相互に平均して絶對の得意もなく亦絶對の失意者もなきものと云ふ可し

又徳川の大法は紛れもなき專制の法律なれども唯中央政權の消長に關する部分のみ專制にして例へば要害の關門を嚴にし諸藩の城郭を制限し諸侯の家族を江戸に住居せしめ江戸に武器の輸入を禁ずる等何れも治安の政策に就ては頗る嚴重を極め其他國事犯重罪の類を處するにも甚だ酷なるが如くなれども地方の制度風俗に關する法律に至りては至極寛大なるのみならず彼の關所破りの大罪にても事實の害なきものは大目に看過して之を問はず況んや博奕婬賣不義密通喧嘩口論醜體破廉恥罪の如きに於てをや大法の寛なること大海の如く滔々たる俗世界の風潮に一任して見れども見ざるが如くし唯非常極端の場合に法の實を行ふのみ之を喩へて云へば徳川時代の法律は人に金を貸して證文はあれども容易に返濟を促さゞるものゝ如し政府の法文に從へば是れも法度なり夫れも禁制なりと云ふ其傍より之を犯して容易に咎めらるゝことなきは金を借用して返濟の催促なきに等しと雖も其これを犯して果して治安に害あり中央の政權に妨ありと認るときは斷然大法に從ひ之を處分して用捨することなし故に人民より之を見れば政府の法は其文面に於て甚だ恐る可きに似たれども實際に恐る可きものなく自由自在に渡世して生命財産に不安心あることなし或は徳川の時代には聚歛の弊あり御用金の事あり賄賂公行して吏人の壓制甚だしく士族は平民を殺すも罪なしなど喋々言囃す者あれば外國人などは正面より之を聞き日本には私有生命の保護なしと信ずるものもある可しと雖も都て是れ事物の一隅に眼を着け其汚點のみを摘發して全面の美を忘れたるものと云はざるを得ず世界古今何れの政府に賄賂絶無の例あるや朝野共に賄賂の沙汰稀にして利慾心の淡泊なるは寧ろ日本の固有と云ふも可なり人事繁多の今日尚ほ且然り況んや徳川の時代に於てをや或は當時中央政府の小俗吏中には多少その譏もありしことなれども廣く諸藩地の實情を探るときは武骨潔白の士流殆んど賄賂の何物たるを知らざる者こそ多かりしことなれ又御用金の苦情も畢竟書生の小議論にして取るに足らず當時の政府が御用金を命ずれば本來政府の義務に非ざる貧民救助に金を費し心を勞したること甚だ多し差引して國庫の損亡人民の利益なる可し諸藩共に皆然らざるはなし又士族が平民の無禮を咎めて切捨る事は實に徳川時代の公許する所にして久能山百箇條の中に

士は是四民の司、農工商の輩對士不可致無禮働今云(原字のまゝ)慮外者也對士慮外致者は士於誅は不坊之士も亦直臣陪臣上下君臣之品あり於慮外其筋可爲同然事

とあれば啻に士族が平民に對して生殺の特權あるのみならず士族相對して上士と下士との間も同樣なる可し此文面を見れば實に恐る可き次第なれども扨實際に於て平民は謂はれもなく士族に殺されたりやと云ふに決して然らず記者の親しく知る某藩の高十萬石、士族の數凡そ千五百戸、當主の外に隱居二三男を合せて大數三千の男子は皆雙刀を帶する屈強の武士にして此三千の武士が日夜農工商に接し徳川の治世元和元年より慶應三年に至るまで二百五十三年の間に平民が武士に向ひ慮外致したりとて切捨られたる者は唯一名あるのみ三千に二百五十三を乘じて一年にすれば士族七十五萬九千の内、平民を殺したる者一人の割合なり實に計ふるに足らざるの數にして他の藩々とて大同小異知る可きのみ即是れ日本士族固有の氣質にして幼年の時より父母これを教へ長老これを戒しめ如何なる場合にも漫に拔刀して人を切る可らずとの一義は骨に徹して忘るゝことなし故に政府の大法に於ては人殺す可しと云ふも社會の風教は大法よりも強力にして人の輕擧暴動を制したるの實を證す可し是等の事實に由りて之を觀れば徳川時代の日本國民は專活君治の下に居り專制の法律に支配せられたりと云ふと雖も實際は全く之に異なり上に專制の君なきのみならず其專制の法律も事實に行はるゝ所を見れば唯非常極端の場合のみにして國民中の大多數を平均するときは法律の下に居ながら法律あるを知らず所謂御大法なるものにして政府の筋に於て漫りに之を弄ぶことあらざれば國民も亦常に法網に罹らんことを恐るゝ者なく上下共に唯人生の常情(コモンセンス)に依頼して生を安んじたるものなり固より治世の久しき人事の多き時としては壓制の事跡なきにあらず官吏の專横厭ふ可きもの少なからずと雖も隨時局部の汚點は以て全面を汚すに足らず二百五十年の其間に政事の明暗清濁を平均すれば立國の根本を害せざるのみか文に武にますます之を進歩せしめ日本國民の最大多數は法律の專制なるが爲めに實益を妨げられたることなく然かも其法律は單に儀式の物なり實際に民利を輕重するものに非ずとの一義は上下一般の腦髓に徹し法を敬して法を弄ぶことなきの習慣を成し以て今日新日本を組織するの要素たりしは之を徳川治世の功徳と稱して爭ふ者なかる可し

又徳川時代の地方制度は各地各藩にて一樣ならずと雖も大概人民自治の風にして政府より干渉すること少なし久能山百箇條に

一縱へ誤り來る事雖有之五十年來あやまり來候はゞ相改め申間敷事

一諸國郡庄屋村里賤民の内其村其里に必古來由緒のものあり是を擧て役義等に可申付遠來の氓民の族登て用ゆべからず此旨代官は勿論地頭國主領主城主已下え可申渡事

とあれば啻に士族が平民に對して生殺の特權あるのみならず士族相對して上士と下士との間も同樣なる可し此文面を見れば實に恐る可き次第なれども扨實際に於て平民は謂はれもなく士族に殺されたりやと云ふに決して然らず記者の親しく知る某藩の高十萬石、士族の數凡そ千五百戸、當主の外に隱居二三男を合せて大數三千の男子は皆雙刀を帶する屈強の武士にして此三千の武士が日夜農工商に接し徳川の治世元和元年より慶應三年に至るまで二百五十三年の間に平民が武士に向ひ慮外致したりとて切捨られたる者は唯一名あるのみ三千に二百五十三を乘じて一年にすれば士族七十五萬九千の内、平民を殺したる者一人の割合なり實に計ふるに足らざるの數にして他の藩々とて大同小異知る可きのみ即是れ日本士族固有の氣質にして幼年の時より父母これを教へ長老これを戒しめ如何なる場合にも漫に拔刀して人を切る可らずとの一義は骨に徹して忘るゝことなし故に政府の大法に於ては人殺す可しと云ふも社會の風教は大法よりも強力にして人の輕擧暴動を制したるの實を證す可し是等の事實に由りて之を觀れば徳川時代の日本國民は專活君治の下に居り專制の法律に支配せられたりと云ふと雖も實際は全く之に異なり上に專制の君なきのみならず其專制の法律も事實に行はるゝ所を見れば唯非常極端の場合のみにして國民中の大多數を平均するときは法律の下に居ながら法律あるを知らず所謂御大法なるものにして政府の筋に於て漫りに之を弄ぶことあらざれば國民も亦常に法網に罹らんことを恐るゝ者なく上下共に唯人生の常情(コモンセンス)に依頼して生を安んじたるものなり固より治世の久しき人事の多き時としては壓制の事跡なきにあらず官吏の專横厭ふ可きもの少なからずと雖も隨時局部の汚點は以て全面を汚すに足らず二百五十年の其間に政事の明暗清濁を平均すれば立國の根本を害せざるのみか文に武にますます之を進歩せしめ日本國民の最大多數は法律の專制なるが爲めに實益を妨げられたることなく然かも其法律は單に儀式の物なり實際に民利を輕重するものに非ずとの一義は上下一般の腦髓に徹し法を敬して法を弄ぶことなきの習慣を成し以て今日新日本を組織するの要素たりしは之を徳川治世の功徳と稱して爭ふ者なかる可し

凡名主の宅には表に玄關を構へ支配場の事務を取扱ふゆゑ名主のことを俗に玄關と呼び町内の紛議差縺等都て右玄關に於て勸解す若し失行の者あれば説諭を加へ無頼の者に至ては時宜に由り差出す(法廷へ)もあり故に古來の積習自然に例と爲り凡名主たる者は人々之を敬重し漫りに其意に悖るもの少なし是を以て時としては其勢に募り支配場の者に利害の事を要求する輩ありて責罰を受けたるもの少からず(但し江戸町々の名主は家主の選擧する所にして官の認可を受け之に公共の事を囑托するが故に御頼名主と稱す)左れば地方自治は古來日本固有の制度にして國民の之に慣れたること久し王政維新の一擧萬物を破壞して自治の舊制度も多少の餘波を被りて一時人民の方向に迷ふ折柄、近來に至りて政府より地方制度なるものを發し其精神は專ら人民自治の基を固くするに在りと云ふ其趣を喩へて云へば西洋熱心の人が日本作りの家は因循なりとて之を破壞したれども去りとて純然たる西洋建築も住居に不自由なり又古風の日本流も勝手宜しからずとて和洋折衷の新宅を作りたるが如し徳川時代の自治制度は君主政治の下に適合したるものなれば今日の立憲政體に遭ふて其まゝ行はる可きに非ず多少の取捨ある可きは當然のことなれども舊制度も新制度も自治は即ち自治なり其新制度の圓滑に行はれて正に立憲の新政體に適するは古來我民心に染込みたる自治の習慣こそ有力なる素因なれ人間世界、無より有を創造す可らず唯僅に形を變ず可きのみなれば今の當局者も地方自治制の發明者創造者を以て自から居ることなく新舊取捨の際に小心翼々謹愼に謹愼を加へんこと我輩の祈る所なり前節に云へる如く徳川時代の君主は上將軍より下諸藩主に至るまで權力平均の組織中に居て十全圓滿の專制を逞ふするを得ず然かのみならず始祖家康公は儒道を重んじ佛法を信ずると同時に必ずしも深く之を學ぶに非ず一種自家の主義を定めて身躬から之を事實に行ひ忠孝節義廉恥を以て人心を奬勵誘導し就中私慾を抑制するの一義は徳川家固有の教にして今日公の遺書少なからざる其中にも道徳に係る部分は字々皆忠孝節義と己れに克て足るを知るの趣意ならざるはなし久能山百箇條の開卷第一條にも

先避己所好專可務己所嫌事

の文字あり當時世に有名にして畏憚敬重せられたる三河武士の氣質は都て家康公の薫陶に由るものにして戰國の末、四方に英雄豪傑多しと雖も部下の將士を率ゆるに恩賞の常に薄きにも拘はらず能く其心を收攬して徳川の一家に限り忠臣義士の多かりしは單に主公の武威に畏るゝのみに非ず自から其徳義の高きに心服すること孔門子弟の夫子に於けるが如くなりし故ならん天下後世日本の士人が武骨質朴に兼て義氣に富むも其由來久しと雖特に徳川の治世に發達したるものと云はざるを得ず此點より觀れば日本の徳川家康は啻に一政府の祖に非ず我世教中興の教主と稱するも過言に非ざる可し此大教主大將軍の後を承け又命令に服し其教に從ふ所の歴代の將軍又諸藩主は假令へ專制獨斷の地位に在るも敢て之を逞ふするを得ず支那などの歴史を見れば寵臣政權を擅にし嬖妾國を傾け君王一朝の怒に乘じて大臣に死を賜ひ酒色に溺れて民財を聚歛する等の事例常に珍しからず君王の一心能く國を興し又國を亡ぼすこと易しと雖も徳川治世の間には曾て斯る弊事を見ず將軍家を始めとして諸藩にも時として寵臣嬖妾なきに非ざれども單に一種の玩弄物のみ如何なる場合にも之が爲めに國政を紊亂したりとの談を聞かず況んや妄りに臣下を殺し民財を奪ふが如きに於てをや日本人の常情に許さゞる所なり或は極端を摘發すれば三百諸侯二百五十餘年の間には稀に類似に沙汰もある可しと雖も尚ほ之を支那歴代の事情に比すれば其禍の輕重同年の談に非ず之を要するに日本封建の君主は將軍にても藩主にても名は專制の君位に居ながら專制の實を行ふを得ず偶ま暴君ありと云ふも唯身邊の奢侈我儘に止まり其狂暴を政治上に施したるものなし既に政治上に專制の實なしとすれば君主の明暗は政治上の得失に影響すること著しからず明君必ずしも政府をして明ならしむること能はざると同時に上に暗君を戴きながら政務の擧るものあり例へば徳川十五代の中にて初代に引續き三代將軍家光八代將軍吉宗の如きは隱れもなき明君にして其事跡も見る可きもの多しと雖も其他累代の君を平均すれば智愚相半して寧ろ暗弱我儘の人物こそ多數なれども徳川の政事は何れの時代も同一樣にして曾て著しき變化を見ず即ち暗主をして其暗弱我儘を政治上に逞ふせしめざるものにして專制の實なきこと明に證す可し此事情は獨り中央の幕府のみにあらず各藩共に符節を合するが如く藩主の性質明察にして藩政の遲鈍なるあり藩政活溌にして藩主の暗弱なるあり藩主と藩政と殆んど關係なきものゝ如くなるは奇に似たれども實際に於て藩政を左右するものは時の老臣執政にして其執政の進退は暗々裡に藩士一般の輿論に制せられ執政は藩主信任の執政にてありながら内實は藩士に對して責任あるものゝ如く一進一退その在職中施政の得失に就ては國人は唯執政を毀譽するのみにして曾て藩主を怨望する者なし稀に或は明君賢相相投じて水魚の如く大に藩政を整理して功を奏したるものなきに非ざれども多年を平均して千萬中の一なれば事例として見るに足らず故に日本國民は封建の君主を尊重崇拜すること固より厚しと雖も其これを拜するや政事の故にあらず唯本心の誠に於て拜するのみにして施政の權柄は君主以下に在るの内質を了解せざる者なし事情こそ異なれ事の實際を喩へて云へば英國の臣民が其帝室を尊崇すること深きにも拘はらず英政の實權は下院に在るの實を信じて疑はざるものゝ如し

尚ほ此上にも我封建君主に就ての奇相を云はんに將軍より諸藩主に至るまで其生活の程度は非常に高尚にして身邊の萬事鄭重を極め二百五十年の長歳月、次第々々に増長して其餘弊は遂に教育をも怠り深宮の中に安居して世間を見ず甚だしきは金錢を手にせず金錢の何物たるを知らざる者さへある程の次第にして一種無類俗に云ふ殿樣の性質を成して共に人事を語る可らず同時に諸藩中以下の輩は祖先遺傳の心身を發達して唯進歩の一方あるのみ特に元和偃武の後は武家も漸く武事に閑を得て漸く文事に志し元祿以後幕府の末年に至るまで日本の文學は殆んど頂上に達して啻に漢文を以て足れりとせず寶暦の頃より荷蘭の書を讀み醫術物理を講する者も少なからず斯る次第なれば士流の間には單に武藝のみを語らずして政談も亦漸く熟し或は歴史を編纂し或は經濟書を著す等凡そ僧侶の手を假らずして士族社會に此種の著述は古來徳川の治世を最も盛なりとす一方に封建の將軍殿樣を見れば暗弱固より政を親らす可きものに非ず又實際に於ても之を親らする者なく一方の士族社會には既に政治上の實驗もあり又その議論も迂濶ならず日本の政治上に變動なからんとするも得べからざる勢なれども唯未だ其機會を得ざるのみ

左れば我開國は日本士族の運動を促すの好機會と爲り之より政變の端緒を發したるは相違もなき事實なれども徒らに尊王攘夷の議論に狂したるが如き簡單なる出來事にあらず其實は士族の流が古來未曾有開國の大事變に乘じ平生の志を伸したるものにして攘夷論の如きは唯是れ一時の方便のみ故に士族等は固より封建君主の暗弱を知り又その治風の專制を厭ふと雖も古來の習慣容易に破る可きにあらず特に上下の名分は我人心に銘したる教なれば是に於てか一策を案じ先づ帝室神聖の名に依頼し又各藩の名を利用し尊攘の一主義を口に唱へて首尾能く幕府を倒したれども之を倒して第二の幕府を作るは其素志に非ず如何となれば士族は既に封建君主の恃むに足らざるを知り又自家に經世の技倆あり熟練あるを知ればなり然かのみならず此時に當りては西洋文明國の事情も漸く明にして彼國人の言を聞き彼國の書を讀めば治國は必ずしも絶對君治のみに限らず君民同治衆庶會議の例もありとの事實を發見し士族等は己れの身に既に爲政の技倆あるを恃む其上に西洋諸國の事例は云々と聞くからには今更第二の幕政を經始して其專制政治の下に立ち又その間に奔走するが如きは甚だ不愉快なるのみか最初より是等の事には思付きもせずして只管西洋流の會議説を悦び攘夷鎖國の狂熱は忽ち變じて開國改進の國是と爲り遂に維新匆々五箇條の誓敕を發せられて廣く會議を起し萬機公論に決す云々の旨を天下に公けにせられたるも當時日本の政治社會に行はるゝ大勢の方向を示したるまでのものにして偶然に非ざるなり當時世にある飜譯書は和蘭の醫書物理書兵書等なりしが偶ま西洋事情と題する一編は彼の國々の政事人事を記し專ら英米人に聞き又英米の原書を飜譯したるものにて日本人の目には最も新らしく政治社會の人は殆んど之を讀まざる者なき程の勢にして其發賣の數正版僞晩を合して十五萬部に下らず同時に學問の勸と題する小册子は十七編合して百史册以上を發賣したり亦以て西洋文明の熱の高きを見るに足る可し)右等の事相を今日より見れば悉皆其然るを圖らずして然るものゝ如く當局の其人に於ても自から知らずして運動したりと云ふ者こそ多けれども天下の大勢は滔々たる江河の流るゝが如くにして人物は恰も塵芥に等しく知らず識らず其流に從て浮沈するのみ改進の議論既に最上の勢力を占たる上は封建の制度は改進の論と兩立す可らず乃ち又廢藩の議を發し一朝にして三百藩を一に合し完全無缺なる大日本政府の基礎を定めたるは其功偉大なるのみならず此事跡に由て考ふれば當初士族の運動は攘夷に非ず討幕に非ず其幕府を倒したるは幕府に敵したるに非ずして立君專制の政治に敵したるの事實始めて見る可し如何となれば有罪として伐たれたる徳川も有效として賞せられたる各藩も其家の禍福は廢藩に至りては同一樣なればなり、罪も功も家にあらず士族流の創造したる新日本の政敵は唯絶對の君治に在るのみ明治の初年西郷翁が友人に贈りたる書翰あり之を一讀しても當時士族有志輩の活溌敢斷にして經營に怠らざるの情を見る可し

朝暮秋冷相催彌以御壯榮被成御座恐悦之御儀奉存候陳ば天下の形勢餘程進歩いたし是まで因循の藩々却て致奮勵尾州を始め阿州因州等の五六藩及建言大同小異は有之候得共御催促申上候位殊に中國邊より以東大抵郡縣の體裁に傚ひ候模樣に成立既に長州侯は知事職を被辭庶人と可被成思召にて御草稿迄も出來居る由封土返獻天下の魁たる四藩その實跡不相擧候ては大に天下の嘲弄を蒙り候のみならず全奉欺朝廷候場合に成立天下一般歸着する所を不知有志の者は紛紜議論相起候上外國人よりも天子の威權は不相立國柄にて政府と云ふもの國の四方に有之など申觸れ頓と國體不相立と申述候由當時は萬國に對立し氣運開立候に就ては迚も勢ひ難防次第に御座候間斷然と義を以郡縣之制度に被復候事に相成命令被相下候時機にて御互に數百年來の御鴻恩私情に於ては難忍事に御座候得共天下一般此世運に相成いかゞしても十年は防がれ申間敷此運轉は人力之不及處と奉存候此際に乘じ封土返獻の魁よりして天下一般の着眼と相成上は色々議論相立候而は是迄勤王の爲に幕府掃蕩被遊候御趣者も不相貫殊に頼朝以來私有の權を御一洗被爲在候御功績も難相立事に候得者決て異議は有之間敷候得共舊習一時に散し候事に候へば異變無之共難申國々も不相知に付於朝廷者戰を以被決候に付確乎として御動搖不被爲在候間夫丈者御安心可被下候此運に當り私有すべき譯無之に付大體變動の模樣も相見え不申候得共此末處置を間違候はゞ如何の變態に押移候哉も難計事と奉存候此旨乍略義再行如此御座候尚追々可申上候得共急々敷一筆奉得貴意候恐々頓首

七月十九日 西郷吉之助

桂四郎樣

維新の眞面目は右四郷翁の書中に寫出し廢藩置縣人權平等の主義は其骨髓にして絶對君治の舊風は主從の恩義に易へても一掃せんとの決心分明に見る可し爾後十數年の間には樣々の變化も多く當時翁が人權平等の説を主張し長州侯は藩知事の職を辭して平民籍に歸せらる可しとて極めて賞贊したる其長州侯の家來共を始めとして舊諸藩士中の功臣と稱する者が却て華族に列して舊諸侯と席を共にし所謂雲上に得々たるが如きは西郷翁に對して面目なきのみか聊か維新の精神に戻るの嫌なきにあらざれども唯是れ一時小兒の戲にして功名男子の癡心を慰るに過ぎず時節到來すれば自から亦自省して改むることもある可し此他政論に就ても民議風を是とする者あり非とする者あり時としては進むが如く又時としては退くが如く局部の運動を見れば解す可らざるもの多しと雖も都て暫時の小波瀾たるに過ぎずして大勢の進む所は防ぐに物なく遂に約束の如く今日の國會開設に至りしは維新の精神に形體を附したるものと云ふ可きのみ

今日の國會は唯維新の精神に形體を附したるまでのことにして深く驚くに足らず世人或は云ふ西洋諸國の國會は大概皆人民の脅迫に由來して平和の手段に成りたるものなし然るに獨り我日本國にては官民和樂の中に起るのみか却て官邊より求めたるの情なきにあらず不可思議なりとて之を怪しむ者あれば好き手際なりとて竊に誇る者もあり殊に外國人の如きは我國事に關心すること深からずして隨て其事情を探るにも迂濶なればますます疑ふ者多きが如し尤至極のことなれども前節に開陳したる我日本政治の歴史を玩味したらば或は其疑を解くに足る可きか、日本國民とて特に政治に關して無熱なるに非ず立君專制の政體を變じて君民同治の政風に改むるには多少の波瀾なきを得ず東西の人情相異なることなけれども我國會の波瀾は既に王政維新の時に發して事既徃に屬したるのみ即ち前に云へる如く維新の一擧は單に徳川政府を倒すに非ず日本國に絶對君治の根底を斷絶したることにして之が爲めに一時干戈を動かして血を流したることあり維新の騷亂即是れなり然りと雖も其騷亂の結果は日本の士族即ち國民の素志を達して之に反對するものなきのみならず凡そ世界各國の歴史に徴するに舊政府を倒して新政府を興すに當りては假令へ首尾能く其事を成すも時に或は餘燼の再燃に遭ふて多少の困難を見ざるはなし源平の興廢は往古の事として之れを擱き徳川の初代にも大阪浪人の沙汰あり海外の佛蘭西に於ても舊王政の廢したるは日既に久しと雖も其政治社會には目下尚ほ王黨なるものを存し先帝ナポレオンの家を恢復せんとて熱心する者あり尚ほ甚だしきは百年前のナポレオン家を慕ふ者さへなきに非ずと云ふ蓋し人情に免かれ難き所のものなる可し然るに王政維新は開基二百五十年の幕府を倒し次て三百の藩を廢して禍福の顛倒古來未曾有の樣なりしかども既に其事を成したる後は日本國中寂として聲なく全國人が舊將軍舊藩主を見れば唯その身邊生活の舊に異なるを驚くのみにして其政權を失ひしことに就ては恰も當然の出來事として怪しむ者もなく悲しむ者もなし況んや怒る者に於ておや往事春夢の如く消して痕を留めず其心の淡泊なる實に古今世界中に事例なきものなり此一事を見ても維新の擧は封建の君主を仇としたるに非ず其專制の制度に敵したるの事實明に證す可し斯る事の次第なれば今日に至り專制々度に正反對なる國會の設立に付き波瀾の由て起る可き原因なきは理の最も賜易きものならずや或は強ひて現政府を專制の政府として一方に置き、人民を自由主義の人民として他の一方に置き雙方相對して其間には必ず衝突ある可き筈の者なりと想像する人もあらんなれども是れは唯西洋の歴史を素讀するのみにして日本の事情を知らざる者の想像たるに過ぎず今の政府は專制ならざるのみか其當局の人々は前年專制の政府を倒さんが爲めに畢生の力を盡したる人なり、之を倒して第二の專制政府を造らざりし人なり、日本の治安は封建の君主に依頼するを須たず衆庶會議を以て事足る可きを悟りたる人なり、古來國政の權柄は封建君主の手を離て其以下に屬するの事實を知り又これを信じて疑はざりし人なり、之を要するに在政府の人は自由改進の魁にして然かも身躬から其事に當りたる人物のみなれば今日民間に如何なる自由主義の者あるも自由と自由と相對して衝突す可しとは事實の許さゞる所なり唯二十餘年來政局に當りし其間には時として勢に乘じて政權を弄したる者もあらん、或は武骨流の人は維新の精神を悟らず專制の舊政府を倒して己れ自から第二の專制政權を執る可しと心得違ひしたる者もあらん、又或は古風淺見の士人は王政復古の文字に誤られ畏くも神聖なる至尊を煩はし奉るに俗界の俗政務を以てせんとするが如き法外なる空想を懷きたる者もあらん是等の事情に就ては民間にても多少の不平を生じ或は之を目して專權の處置と云ひ藩閥の弊と云ひ國體を知らざる空想論と稱して隨分物論を催ほしたることもあれども畢竟するに政談社會の小波瀾にして大勢の運動を左右するに足らず之を喩へば今日民間の政黨と政黨と相對して主義を異にし、又その一政黨の中にても黨員相互に意見の相投せざるものあれども立國の方向を開進進歩と定むるの一事に至りて曾て齟齬するものなきが如し左れば二十餘年來政府と人民と相對して或は不調和の情なきにあらざりしかども國會開設の利害論よりして大破裂に及ぶが如きは萬々ある可らず如何となれば明治の日本國は官民共に既に專制の治風を脱却して進歩の方向を共にするものなればなり尚ほ此上にも國會政治の實施に當り我國民特有の習慣を以て萬般の事を圓滑ならしむ可き事情こそあれば前條々に記したる事實に照らして之を左に證明す可し

前節第一條に君民同治の立憲政體に於ては君と民との間に一種絶對の權力を安置し雙方共に其制裁を受けて圓滿頂上の得意もなく又極度の不平もなし云々と陳べたり又上に君主を奉じて立憲の政を行はれしめんとするには其君を尊崇敬愛すること神の如く父母の如くにして却て俗界の俗政務は君主の與り知る所に非ずとの事實を了解し如何なる場合にも責を君主の身に歸して怨望することある可らず、又法文は人事の繁雜微妙を盡すに足らざるが故に立憲政體の間に運動し其下に居らんとするものは法文の字義にのみ依頼するよりも人生の常情に生ずる習慣に制せられ、法の下に運動しながら其法を忘るゝ迄の境遇に達せざる可らず、又立憲の治下に居て既に絶對君治の干渉を脱するときは人民の居家處世は無論、公共事務の或る部分までは自治の運動なかる可らず、凡そ君民同治立憲國會の政體に必要なる原素は右の如くにして我日本國民の習慣に此要素あるやなきやと尋れば我輩は口を放つて之に富むものと云はざるを得ず上古の事は姑く擱き徳川政府二百五十餘年の其間に權力平均の主義は之を大にして政治の組織、之を廣くしては士民の關係、尚ほ下て民間些末の事に至るまでも得意と不平と相半して圓滿頂上に達するを得せしめず上下貴賤貧富強弱おのおの滿足するを得ざれども又自から得意の點もありて其分に安んじ世々の習慣は第二の性を成したることなれば例へば今日の國會組織に於て憲法を定められたる上は國家の大權は固より帝室に歸して萬世動搖す可きに非ざれども彼の空想論者の思ふが如く俗政の小權柄までも帝室の累を爲すことある可らざれば論者の内心に於ては或は不滿足を感ずることもある可し又國會前の政府は人民に對して會釋少なければ隨分活溌にして時として失策なきに非ざれども又時としては施政の成績美にして功名手柄の著きものありしかども今や何事も議院の議を經ざれば行ふ可らざるのみか其議事とても往々餘計の時を費し自分等の活動に不便利にして功名は却て議院に歸するが如き奇談もある可し又議員は待ちに待ちたる國會の開場に遭ふたれども扨實際に至れば人民に參政の權を附與せられたりとて國會の大權を以て自由自在に大政を左右す可きにあらず時としては失望不平もある可し啻に政府に對する權衡に於て然るのみならず政黨と政黨との關係に於ても又同黨中の人と人との交際に於ても人文の進歩する程に議論も亦喧しく此の一方に於て勝を制すれば他の一方に對しては失敗を取り、昨日までは我幕下と思ひし者に對しても今日は却て其教を乞ふの要用あり、老者常に油斷す可らず少者常に得意なる可らず之を要するに政治社會の權力縱横無盡に入亂れて甲乙丙丁誰れ一人として圓滿の得意を以て居る者ある可らず唯この時に當りて人々安心の法は月に村雲花に風の俚諺を思ひ苟も一時の不平不如意を醫せんが爲に極端の手段を用ひざるに在るのみ然るに我日本國民は此の一段に至りて安心の堅固なること他國人の企て及ぶ所にあらずして假令へ或は從來の我儘に増長し又は新進の血氣に乘じて奇を働かんとする者あるも社會全體の人心は古來の習慣に養はれて動搖す可らず奇は唯一時の奇にして政海の小波瀾のみ或は其波瀾の局處を見れば危險の觀を呈することもある可しと雖も恐るゝに足らざるなり又立憲政體の要は君主を尊崇敬愛して之に政治上の責を歸せざるに在りと云へり此一事は特に日本國民に固有する徳義にして千古以來我帝室の神聖犯す可らざるを知らざる者なきのみか武門の世に至りても君臣上下の名分は益々明にして啻に帝室の神聖を尊拜するのみならず封建の將軍藩主に對しても其家來領民たる者は之を視ること鬼神の如く父母の如くし殊に徳川治世中將軍藩主に專制の政權ありと雖も唯表面の名のみにして治下の士民中誰れ一人として施政の得失に關して直に其主人を怨望したる者あるを聞かず主人は恩徳の泉源にして怨の府に非ず左れば此習慣は國人の骨に徹して天性を成し今の帝室を尊崇敬愛するは唯人々の性に從ふのみ日常の言行自から知らずして此に發し其至情の濃なるを評すれば恰も君を忘れて君を知るものとも云ふ可き程の有樣なれば我政體が立憲に變ずるも變ぜざるも帝室は依然たる萬世の帝室にして俗界の施政に如何なる得失あるも誰れか直に至尊を仰で之を訴る者あらんや凡そ世界中に國君多しと雖も其家の堅固にして安きものは我大日本國の帝室に比す可きものを見ず此一點に於ても我立憲政體の要素に缺く所のものなきを知る可し

又立憲政體の間に運動して其下に居らんとする者は法文の字義に依頼せずして人生の常情に訴ふ可しと云へり世界に立憲の國多くして各その法文あらざるはなしと雖も錯雜無限の政務を處して利害の相戻ること勿らしめんとするには簡單なる法文を以て足る可きにあらず強ひて文字に依頼せんとするときは唯事の難澁を見る可きのみ故に法律は大切なり國民の依て以て生を安んずる所のものは唯一片の法文あるのみなれども是れは萬々一の場合にして平生に在ては官民共に法の中に居ながら法あるを知らず其言ふ所行ふ所自然に法に戻らざるの習慣を成して始めて立憲政體の無病なるものと云ふ可し例へば英國の政治に於て政權の實は下院に在りと雖も其帝室には敕撰議員を命ずるの特權あるが故に帝室にして若しも下院の議に滿足せざることあれば新に多數の貴族を作りて之に上院の席を授け以て下院を制すること易し憲法に於て明に許す處なれども百餘年來の習慣に於て曾て其沙汰を聞かず萬々一も今日の實際に斯る事跡もあらんには英國の人は上下一般に之を奇怪として許さゞることならん即ち英人は法の下に居ながら其法を行ふことを許さゞる者なり又英國の憲法に宣戰媾和は帝室の特權にして帝室は兵馬の大權を握ると雖もミユーチニ アクトとて軍隊の維持に關する法律は毎年これを議して更始するの掟なるが故に國會の決議を以て之を更始することなきに於ては帝室には兵馬の權あるも兵馬の實物を得ざるの奇觀を呈す可しと雖も古來曾て斯る奇觀を觀たることなし又千八百七十八年英國出版バジヨー氏の英政論に

女皇が上院の否決にも拘はらず皇室の特權を以て陸軍の賣官法を廢止したるに付ては一般の國民は其異例を怪しむ者多しと雖も女皇が法律上に國會の議を俟たずして擅行す可き其特權の條々を枚擧して前記の事の如きは唯僅に特權中の最少部分のみとの次第を示したらば驚愕更に大なる可し今その一二を云はんに女皇は特權を以て能く陸軍を解散し(法律上定數以上の兵を募るを得ざれども全く兵備を解くには妨なし)大將以下の將校士官を免じ又海軍一切の水兵を罷め軍艦武器を賣却しコーン オールの一縣を割いて隣國と和を媾じ又ブリタニー(佛領)を略取せん爲めに戰を開き、合衆王國の男女を擧げて盡く貴族に取立て、合衆王國所在のバリシユを大學と爲し、一切の文官を免罷し一切の囚徒を赦免すること勝手次第なり之を約言すれば女皇は國家の政務を全廢し無名不利の宣戰媾和を行ふて立國の體面を汚し海陸の軍備を廢して吾々人民を外敵呑噬に委棄するの大特權を有する者なり云々

とありて尚ほ此種の奇を計ふれば枚擧に遑あらず故に英政の正面より見れば絶對君治の事を行ふ可し又統然たる共和政の事をも行ふ可しと雖も唯英國人の常情これを行はざるのみ一言これを評すれば盡く法を行へば法なきに若かずと云て可ならんか又米國の憲法も凡そ右に類似のもの少なからず例へば大統領は國會に對して決議の再議を求むるの權あれども國會に於ては上下兩院の議員三分二の同意に由れば大統領の許諾を俟たずして其決議を法として實行するの權あり此一點に於ては大統領は無權なるが如くなれども行政權は大統領の手にあるが故に假令へ法律と爲りたるものにても其實施の遲速如何に就ては國會も亦これを促がすの權なし其状恰も實施の歸する所なきものゝ如くなれども唯積年の習慣に由りて實際の支差を見ざるのみ抑も米國の憲法は百餘年前の編成に係り今日より之を見れば時勢の變遷に從て不都合なる箇條もあり又その文面に遺漏も少なからず其一二を擧れば國會に宣戰の權ありと記して媾和の事を言はず而して大統領は兵馬の元帥なるが故に一度び國會にて戰議を決して大統領が軍事を命令するときは隨意に戰爭して國會は之を止むるを得ず又國債を募るには必らず國會の議決を要することなれども憲法に紙弊云々の事なきが故に大統領は行政の處分として紙弊を發行するに妨げなし國債と紙弊と名を異にするも其性質は同樣なるに一方に之を防で他の一方を問はずとは奇なりと云ふ可し其他憲法の文面通りにては今日の實際に行ふ可からざるもの甚だ多けれども米國人の氣風として事の細目に拘泥せず磊々落々人生の常情に訴へて世に處するの習慣に富むが故に憲法の字句を問はず唯實際に行はる可きものを行ふて施政の圓滑なる其趣を喩へて云へば先人の遺言書を開き其今日に不都合なる部分をば好きやうに解釋して實際に子孫の利害を妨げざるものゝ如し彼の國の漫言に議員が其撰擧に際し文典并にスペルリングの試驗を要するとありては米國の國會は廢滅の外なしと云ふことあり盖し國會議員は憲法を解釋するに其文面の如何に拘はらず唯だ實際に都合好きやうに説を附けて往々文學上の文法を誣ゆること多きが故に若しも此議員をして正面より文法を守りて憲法に從はしめたらば國會は一日も立つ可らずとの意味を面白く漫言に托したるものならん左れば我國の憲法とても正面より之を讀で其文字のみに依頼せんとするときは政府が人民に對しても人民が政府に向ても相互に衝突して相互に窮迫することある可し頃日朝野士人の言を聞くに官民の間、大抵の事は互に勘忍すれども苟も憲法に差響くことありては最早用捨す可き限りにあらずとて一方が頻りに其用意して憲法第何條は斯く斯くの意味なりと云はぬばかりに説明すれば却て人の氣配を惡しくし他の一方には自から解釋を別にして之に反對し甚だしきに至りては上奏などの言を口にするものさへありと云ふ誠に驚入りたる次第にして上奏の文字は憲法の文面にこそあれ實際は百年中に一度も其事ある可らざるは不言の中に會心す可き筈なるに今その然らざるは無識不熟練の小政治家が憲法を喜ぶの餘りに憲法に酩酊したるものにして結局雙方の心得違ひと云ふの外なし故に今日の情態よりして事の一局部を見れば官民中の人に或は雙方の衝彈窮迫を合點しながら態と運動を試みて一時の快を取らんとする奇士もある可し其頂上に達しては國家の一大事と思ふ程の勢に迫ることもある可しと雖ども幸なるは我日本國人は前節に陳べたる如く徳川政府二百五十餘年の久しき所謂大法の下に生々して專制の政治に支配せられ乍ら專制の君を見ず、專制嚴酷の法律外に寛大至極の習慣法あるを了解して常に法律の文面外に悠々たりし者にして其寛大の氣質は三五十年を以て消滅す可きに非ざれば假に今日の政治社會に於て政府にても人民にても法の文字を爭ひ之に由りて無理に勝を制したりと云ふ者あるも一時の勝敗は兎も角も遂には國民一般の常情に訴へられて無理なる者は無理に歸し遂に世に見放されて孤立の姿に立至る可きのみ即ち我立憲政體の下には奇士の奇を呈す可き餘地なきものにして假令へ暫時の奇觀あるも唯外面の一局部に止まり社會の裏面深き處には着寛寛大の氣風充滿することゝ知る可し又絶對君治の名義を脱して立憲の治下に居る者は自治の覺悟要用なりと云へり此一事に就ても前節既に云へる如く日本國民は二百五十餘年の間政權こそ窺ふことを得ざれども地方公共の事務に於ては十分に自治の事を行ひ政府の干渉を受けざること久し唯維新以來政府の政策恰も逆行して徒に人を勞し錢を費したること多しと雖も近來は當局者も聊か自省する所あるか更に地方の自治を奬勵するものゝ如し封建時代の自治と近世の自治とは自から趣を殊にする所もある可しと雖も其精神は即ち相同じ今後政府が果して前非を改め干渉を少なくして之に加ふるに封建時代の遺風なる官尊民卑の陋習を掃却することあらんには我國民の自治も更に面目を改めて立憲政體の要素たるに毫も愧る所なかる可し

以上章を重ねて開陳したるが如く我日本の國會は明治二十三年に形體の成を告げたりと雖ども其の生誕は二十三年にあらずして明治元年王政維新の時に在り其維新の時に生誕したるは徳川政府の治世二百五十餘年の素因に胚胎して嘉永の開國これが誘因と爲り西洋文明の輸入以つて分娩を促がし事の由來久しくして胎内の教育十分に熟し分娩も亦時を得たるものなれば其生兒たる國會の健康にして長壽萬々歳たる可きは識者の診察に於て違ふことなかる可し抑も此事たるや我歴史上の事實に明白にして内國人なれば少しく思案して直に會心すること易しと雖も外國人は則ち然らず其日本の事情を知るに難きは吾々日本人が常に外國の眞面目を探るに苦しむが如く動もすれば一時一局部の見聞を以て全面を速了判斷することなきに非らず是即ち我輩が内國讀者の厭倦を憚からず徳川時代の往事を記して歴史文外の事情を明にしたる所以なり唯願くは外國有識の士人が心を潛めて我輩百年來の人事政事の眞相を研究し日本の地理は東洋の一隅に位すれども其國民は則ち外人の夙に想像したる東洋人に非ずとの事實を發明したらば國會の設立も偶然ならざるを知りて始めて心に釋然たるを得べきのみ

左れば我國會の基礎は堅固至極のものにして前途の望は順風に帆して走るに異ならずと雖も船の運動を唯風にのみ任す可らざるが如く立憲國會の政治を維持して今の文明世界に立たんとするには政府も人民も相互に協力して針路を一にし相和し相援るのみならず各自から省みて自から抑制する所のものなかる可らず此點より觀察を下して維新以來今日に至るまでの政府を評すれば勇進敢斷、事業の擧りたるもの少なからず維新匆々武家廢刀の令、平民へ苗字乘馬の免許、廢藩置縣、府縣會の開設、電信郵便、鐵道汽船、海陸軍の擴張、法律諸規則の改良、税法の整理貨幣の制度等に至るまで其成績偉大にして美なるもの多しと雖も又一方より見れば政府は智識の府と稱しながら其衆智者が合體するときは動もすれば一愚人の事を行ふて失策の痕跡を事實に現はし假令へ其影響は國體を損する程に至らざるも徒勞徒費に屬して物議を招きたるもの少なからず外債を募りて其何の爲にしたるや知る可らず、起業公債を發して業の起りたるを見ず、漫に鑛山に着手して收支相償はず、紙幣を増發して一度び市場を紊亂し尚ほ之を回復するの法を誤りて商工社會倒産の禍を今日に遺し國庫の金を容易に一會社一個人に貸して遂に之を失ひ民力不相當の教育に熱して官民の財を空ふし大小不用の官吏を情實の爲めに用ひて事務を繁にし、政治上にあるまじき宗教の事にまで手を出し神佛の雜居を許さずとて爲めに名所舊跡の景勝を破壞するのみならず國教とも稱す可き佛法を敵視して暗に神道を助け遂には畏くも帝室の御葬祭までも千年來の御舊式を改めさせらるゝに至り、人民舊來の自治を妨げて干渉を多端にするのみか政府の名は平等と唱ながら官尊民卑の實は封建の時代に異ならず、爵位族稱の兒戲を新にして既に人心を失ふ尚其上にも政治上に警察權を用ること甚だしきに過ぎ容易に人を拘留し容易に人の家を搜索し又容易に人の祕密を探り其探索實を得たるものは尚ほ恕す可しと雖も往々想像に誤りて人の不平を招くもの多し例へば明治二十年十二月東京市内に住居寄留する者にして内亂を陰謀し又は教唆し又は治安を妨害するの虞ありと退去を命ぜられたる者の如き果して其虞ありしや否や之に退居を命ぜざりしならば果して内亂を起し治安を妨げたることある可きや、否や、未發の事は圖る可らずと雖も今にして心靜かに考れば退去の命も或は不用なりしに非ずやと今更ら云ふて甲斐なきことながら我輩の竊に惜しむ所なり元來天下の大勢より見るときは彼の所謂在野の民權家なる者も在朝の官吏なる者も共に開進の方向を與にして共に一方に進む者にこそあれども唯官吏は時の政府に居て事を執るが故に一時互に地位の相違あるのみのことなれば其の地位を異にすればとて之れを敵とするに足らず悠々相交り相容れて長者には學び少者には教え區々たる名利の私心を去て相共に一國の大名利を謀るこそ自身の愉快なれ又子孫の幸福なれと思へども今その然るを得ざるは政府部内の人々が維新の初めより既に已に專制君治の覊絆を脱して會議主義の治風に呼吸しながら時に或は外面の體裁に欺かれて事の本來を忘れ政府の内と外とに恰も主客を區別して自から主人を以て居り主人の一類に厚くして客を疎外し暗に專制風の恩威を試みんとして君子に交るの法を知らず遂に政府の本色たる政權維持の範圍外に逸して客位の輩を輕蔑したるものより外ならず人情に免かれ難き弊事なれども政府中老練經世の人物に乏しく己に克て分を知るの教なきが故なり又一方の民權家に就ても我輩の感服せざるもの甚だ少なからず王政維新は時勢に乘じたるものとは云へども其時の勢を見て事を成したる者は今の政府の人々なり之を喩へば投機商が一攫千金の利を得たるは時に投じたるのみ人の勞に非ずと云ふと雖も其時機を察したるは其人の働にして他より利益を爭ふ可らざるが如し左れば維新の有志輩が時機を見て興り千辛萬苦、前後身を殺したる者も多き其中に僅に一命を存したる人々が今の政府に立て事を執ることなれば其擧動に多少の無遠慮我儘あるも之を恕するは大人の事なる可し然るに政府の人も當初の精神に於て際限もなく政權を私するは時勢の許さゞるを悟りて國會開設の決斷に及びたる今日なれば人民に於て最早や不平はある可らず唯この上の問題は國會の權限如何、政府の内心如何の一點なれども一國の政務は至極錯雜なるものにして現政府の由來僅に二十餘年と云ふも此二十餘年の間には自ら其政務に歴史もあり因縁も入組みて近く接して之を視れば平生の豫想外に出るものも多かる可ければ先づ事の簡單にして利害の明白なるものゝみを議論し雙方より互に意見を吐露する其中には自然に國會の權限も定まり又政府の意の在る所も知らる可ければ總て事を着實にするこそ得策なれ佳境には漸く入る可し性急にす可らずと我輩の宿願なれども民間濟々の多士の中には血氣の人も少なからずして國會開場の其以前より滿腹の不平に堪へず政府を視ること讐敵の如くし凡そ二十餘年來の施政は一として取る可きものなし此れも失策其れも非擧なりとて一より百に至るまで唯だ他の弱點のみを敵發して攻撃を試みんとする其趣は國の爲めに政治の得失を明にするよりも寧ろ政府の人に對して怨を報ぜんとする者の如し既に國會の開場に及びても場中の論勢時としては議政の本色を次ぎにして些末の權限論に時を費すことはなかる可きやと竊に心配する人もあるよし我輩の甚だ堪へ難く思ふ所にして一言これを評すれば國家議政の君子にして自尊自重の資に乏しきものと云ふ可し抑も今日の日本は鎖國の日本に非ずして世界萬國に對するの日本なれば國會も政府も其政を議し政を行ふは直接に日本國人自家の小利益のみを云ふ可きに非ず國家永遠の實力を養ふて對外の體面を張るの工風こそ專一なれ然るを區々たる政府の大小官吏が其地位を守らんとすれば國會の志士は之を攻めんとし攻防の小策正に忙しき其際に立國遠大の大計を忘るゝが如きは果して平生の本意なるや、今の政治社會に在る人々は官民共に悉皆封建士族の流に非ざれば其流を共にしたる民間の士人なり此種の士人は昔年の忠臣にして主人の御馬前に討死を約したる人ならずや今日我輩は敢て其討死を求むるに非ず唯その主人の爲にするの心を移して日本國の爲めにするの忠と爲し官民共に些々たる私怨私徳私名私利を掃却し眼中唯大日本國あるを見て之が爲めに内の不愉快を忍び圓滿の功名を期する勿らんこと我輩の呉々も祈る所なり右は二十餘年來我國官民の關係にして其事情面白からざるに似たれども一國大勢の運動上より見れば二十年の小波瀾は唯是れ一呼吸のみ固より以て我政治社會の運命を左右するに足らざるのみならず或は今後國會の事情に由り如何なる變動を生ず可きやも計る可らずと雖も根本の堅固なる日本の立憲政體は日月と共に長久なる可きこと我輩の敢て信じて疑はざる所なり凡そ事物の維持保存は先づ我安心の如何に在り、悸心に暗鬼を生じ病を恐れて却て病に罹ることあり世上淺見の人自から自國の政體を怪しみ却て之を害するの恐なきに非ず況んや外國の人に於てをや我政治の近状を皮相して如何なる説を作す可きや圖る可らず我輩一片の婆心内外人の心を安からしめんが爲め數日の筆を勞したるのみ

國會の前途畢