「政府の歳計」
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時事新報に掲載された「政府の歳計」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
政府の歳計
政府より國會に提出したる豫算案は客冬豫算委員會に於て全く調査を終り八千萬圓の總額中凡そ一千萬圓を■(にすい+「咸」)ずる事に議决したりと云ふ今の政府の經費中には所謂冗費の■(にすい+「咸」)ず可きもの少なからずと雖も二十餘年來の事情因縁は一朝にして絶つ能はざるものなるが故に斯る非常の節■(にすい+「咸」)は遽に行ふ可らず云云の次第は前日の紙上に述べたる所なれども更に事實に據りて詳論せんに慶應三年の末即ち維新の當初より昨明治二十三年度に至る迄二十三年間の歳計は左の如し(統計年鑑に據る)
年 次 歳 出 円
第一期 自慶應三年十二月
至明治元年十二月 三〇、五〇五、〇八五
第二期 自明治二年 正 月
至同 年 九 月 二〇、七八五、八三九
第三期 自同 二年 十 月
至同 三年 九 月 二〇、一〇七、六七二
第四期 自同 三年 十 月
至同 四年 九 月 一九、二三五、一五八
第五期 自同 四年 十 月
至同 五年十二月 五七、七三〇、〇二四
第六期 自同 六年 一 月
至同 年十二月 六二、六七八、六〇〇
第七期 自同 七年 一 月
至同 年十二月 八二、二六九、五二八
第八期 自同 八年 一 月
至同 年 六 月 六六、一三四、七七二
明治 八 年度 六九、二〇三、二四二
同 九 年度 五九、三〇八、九五六
同 十 年度 四八、四二八、三二四
同 十一年度 六〇、九四一、三三五
同 十二年度 六〇、三一七、五七八
同 十三年度 六三、一四〇、八九六
同 十四年度 七一、四六〇、三二〇
同 十五年度 七三、四八〇、六六七
同 十六年度 八三、一〇六、八五九
同 十七年度 七六、六六三、一〇八
同 十八年度 六一、一一五、三一三
同 十九年度 八二、六一七、九八八
同 二十年度 七九、六八七、五一五
同二十一年度 八一、〇八九、〇一三
同二十二年度 七六、五九六、三一三
同二十三年度 八四、五七九、四四三
右の表に據りて案ずるに第一期より三四年の間は政府草創の際にして財政の規模も未だ定まらざるものとして姑く擱き夫より以後明治十三年の頃に至るまで凡そ十年の間は歳出の額平均六千萬圓内外なりしに(第七期即ち明治七年度の歳出は右十年間の平均額中特に出色の觀を呈し八千二百萬餘圓に達したるは同年には臺灣征討の事ありて出費の多かりしに由るものならん)十三年度を界として十四年度よりは遽に七千萬圓と爲り十六年度には八千萬圓と爲り爾來常に七八千萬圓の間を昇降して(十八年度の六千百餘萬圓は會計年度の改正に依り同年の七月より十九年三月に至るまでの計算なりと知る可し)二十三年度に至りては遂に八千四百萬圓の多額に達したるの事實を見る可し抑も政府の歳計は從來六千萬圓内外なりしものが十四年度より遽に増して七千萬圓以上と爲りたるは如何なる次第なりやと云ふに世人の知る如く明治の初年以來政府發行の紙幣は少なからざりしが十年に至り西南の兵亂の爲め國庫に不足を告げたるより政府は大に紙幣を増發して一時の急を充したるを重なる原因として銀貨と紙幣との間に價格の差を生じ年を逐ふて其差次第に甚しく十四年に入りては一圓に付き七十二錢餘の懸隔を見たる事さへある程の始末にして政府の歳入は六千萬圓と云ふと雖も其實は非常に節■(にすい+「咸」)せられたると同樣なれば十四年以來の増額は即ち時の銀紙の差を歳計上の數に現はしたるものにて當時に於ては止むを得ざるの事情なりと云はざるを得ず然り而して紙幣を濫發して經濟社會の病を惹起したるものは政府の當局者なるが故に其回復の善後策も亦當局者の責任に外ならずと雖も其病は一時特發の症に非ずして數年來不養生に不養生を重ねて益益之を激せしめ既に膏肓に入りて大患に陷りたるものなれば其治療の方法は喩へば猶ほ寒氣に倒れたる者を活すに直に暖を與へずして先づ氷を以て身體を摩擦するが如く又餓えて死に瀕したる者には湯もしくはソツプ等の輕き飮料を先にして食物を後するが如く徐徐に手を下して徐徐に歩を進め始めて治效を見る可きものなるに然るに我財政當局者の方案は此に出でずして明治十四年今の松方大臣が財政の局に當りし以來政府は一〓に紙幣■(にすい+「咸」)縮の政略に熱して他に顧みる所なく着着紙幣を■(にすい+「咸」)却し日本銀行を設け兌換券を發行する等もつぱら此一事にのみ鋭意したる其效は空しからず明治十九年より同二十年の頃には遂に銀紙の平均を見るに至り政府の目的は全く達したるが如くなれども前記の如き患者の容體に斯る急激の治療は必ず非常の害あるを免る可らず二十年五月の頃東京府下の紳商等が鹿鳴館に大藏大臣を招きて所謂頌徳の表を贈り春風駘蕩百花嬋娟の春を俟つが如く商業世界に滿目の春光を呈すること蓋し遠きにあらざる可しとて只管大臣の功徳を賞賛したる其前後は經濟社會の光景恰も時ならぬ嚴寒を感じたると同樣、貸したるものは返らず買ひたるものは價を失ひ全國到る處に破産身代限り續續跡を接して慘状の最も甚しきを見る可し即ち治方の宜しきを得ざるが爲めにして畢竟財政當局者の失策なりと云はざるを得ず然りと雖も其失措は既徃の事にして咎むるも益なしとして既に紙幣の下落を回復して其目的を達したる上は十四年來増加したる政府の歳入は漸次之を■(にすい+「咸」)少して以前の平均に復し以て人民の負擔を輕からしむるこそ政府の義務にして當局者の處置は是非とも此に出でざる可らざるに大藏大臣は外に向て回復の策を斷行したるの勇に似ず内部の事には却て眼の屆かざりし事情もありと見え更に此邊の注意もなきのみなららず其後年を逐ふて益益歳入の多きを見るに至りたるは今更ら云ふて甲斐なきことなれども返す返すも遺憾の次第にして我輩が當局者の爲めに惜む所なり斯る事の次第なるが故に今日國會に於て節■(にすい+「咸」)の説あるは誠に無理ならぬ申分にして我輩に於ても異論なき所なれども經濟社會の關係は至極微妙のものにして財政上急激の變動は其方向は何れにしても一時の混雜を免る可らず左れば今の八千萬圓の政費中より突然非常の■(にすい+「咸」)額を見ることもあらんか政府部内の都合は兎も角も間接に全國の商工業に波及する所の影響は容易ならずして其結果は取も直さず財政當局者の徃時の失策を今日に再演するに異ならざるものあらんなれば今の財政の事を議する人人も深く其覆轍を鑑みて一時の激變を避け今年今日の現状を以て明治十四年に時の當局者が急激の回復策を施したる其後を直に引受けたるものと覺悟し然かも其尤に傚はずして廣く全國經濟上の利害に着目し今年明年明明年と次第に年を逐ふて漸次に節■(にすい+「咸」)の實を擧るを以て至當の善後策なる可しと我輩の敢て信ずる所なり