「外山氏の高等中學論」

last updated: 2019-11-26

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時事新報に掲載された「外山氏の高等中學論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

内山生

頃日の諸新聞紙に現はれたる外山正一氏の高等中學存廢に關する意見は頗る長篇の文字な

れども其要旨を略言するに今の高等中學を廢すれば地方の少年子弟は東京府下に輻輳して

都下の惡習に感染するの患あり又これが爲め外國人が内國の各地に學校を起し我子弟を敎

育するに至れば一國の體面に關するものにして即ち亡國の策なりと云ふの二點なるが如し

我輩の所見を以てするに成程今の高等中學を廢すれば四方の少年子弟は都下に來集して多

き中には或は惡風に感染する者もある可し誠に其説の如くなれども元來子弟の敎育に都下

を善とするか將た地方を善とするかは一の疑問にして田舎僻地に蟄伏して讀書勉強の外に

餘事なければ勿論惡習に染の患もなきことならんなれども人生の敎育は獨り學校内の課業

のみならずして讀書講學の傍に廣く事物を見聞して處世の實務を知るの利は却て都下の修

業に多きを見る可し例へば今日の實際に社會の表面に立ちて夫れ夫れの事に當る其人々の

身元を尋ぬれば年少郷里を辭して都會繁華の地に出沒し學校内外の敎育を受けたる者に多

きが如く強ち田舎に蟄伏するのみを以て敎育の能事と爲す可らず左れば敎育の都鄙論は雙

方共に一利一害にして其利害は容易に判斷す可らざるものゝ如し次に外國人が内地に學校

を起して我國の子弟を敎育するは由々しき大事なりとの説なれども既に條約を改正して内

地の雜居をも許す可しとの覺悟さへある今日に當り外人が内地の處々に學校を起す可しと

て俄に慷慨するは近頃窮屈の見たるを免る可らず夫とても外國人が日本國中到る處に學校

を設け全國の敎育を悉く引受くるとあれば自から別問題として見る可しと雖も實際に外國

人が限りなきの費用を冐して斯る無謀の企を爲す可き筈もなく又これを企てんと思ふ者さ

へもある可らずと我輩の固く信ずる所なれども假りに一歩を退て氏の説に從ひ地方の少年

子弟が府下に來學するときは必ず惡習に染むを免れず又外人は續々内地に學校を起すもの

として高等中學は今後永久是非とも國費を以て維持するものとせんに扨事の實際に於て事

物の比較費用の割合等は如何にせんとの考案なるや從來我輩の持論に於ては敎育も亦金錢

上一種の買物に外ならざれば割合に所費の少なくして所得の多からんことを望むものにし

て高等中學は申す迄もなく帝國大學を始めとし其他各種の官立學校を見るに其敎育には貴

重の値打あることならんなれども其所得に割合して何分にも費用多く所謂浪費濫用の弊を

免れざるは官邊敎育の欠典にして我輩は一國の經濟上より見て大に其費用を減ぜんと欲す

るものなれども殊に高等中學の如きは割合に費用を要し其建築費のみにても非常の額なり

と云へば其邊の事實は自から人の耳目に入り易く扨こそ議會の人々も之に着目して存廢の

説を爲したる事ならんのみ誠に至當の見なりと云はざるを得ず然るに氏は前記の理由より

して頻りに其廢止説の不可なるを陳ずれども事物の比較費用の割合には毫も論及する所な

く甚だ物足らぬ感なきにあらざれば我輩は特に此點に於て更に其説を聞んとするものなり

猶ほ終に臨み序ながら一言するは餘の儀に非ず氏の文中に

實に今日我國の如く專門の學科に熟達したる野蠻人の如きもの多き國は他に其例を見ざ

る所ならん云々

の文字あり甚だ不穩の詞にして斯る言語は帝國大學の敎授にして然も貴族院の勅撰議員た

る其人の口より發す可きものとも思はれざれ共夫は兎も角もとして其野蠻人云々の意味は

我輩の更に了解する能はざる所なれども世の專門家と稱する人々の中にはとかく其學科の

一方にのみ偏して廣く社會の事物を見るの明を欠き左右前後を顧みずして只管一事に狂熱

するの弊もなきに非ざれば或は是等の人を目して野蠻人と云ふの意味にてもあらんか果し

て然らば實際に事物の比較費用の割合等をば問はずして單に學校維持の一事のみを熱心に

主張する人の如きも亦此種の野蠻人たるを免れざるものにして其野蠻人云々とは寧ろ夫子

自から道ふものにあらずやと我輩の竊に臆斷する所なり