「商安を如何せん」
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時事新報に掲載された「商安を如何せん」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
商安を如何せん
今の文明世界に立國の道は商賣に外ならずと雖も商賣の繁昌するは其安全あるが爲めにして國の商安、全からざるに於ては商賣繁昌の望ある可らず即ち商賣の安全不安全は其國運の如何を見る可きものにして西洋諸國などにては政府の法律の如きも商賣の安全を目的とすること勿論なれども社會一般の仕組に於ても商安を謀るの道備はらざるはなく船舶には海上保險あり人身には生命保險あり家屋には火災保險あり其他職工の保險なり奉公人の保險なり苟も財産と名く可きものあれば茲に保險の仕組あり如何なる事變災難に遭ふも其安全を失はざるの用意にして商安斯くの如くにして始めて商賣の繁昌を見る可きなり我國に於ては從來政府の法律なり社會の仕組なり商安を謀るの道、甚だ備はらずして國の爲めに憂ふ可きもの少なからず我輩の毎毎切論したる所なれども維新以來法律の改正も其要は人權を固くし私有を保護するの精神にして殊に國會の開設は此精神をして益益發達せしむるより外ならざれば議塲の議論は大に商賣の安全を謀るものある可しと豫期したるに豈に圖らんや實際は全く反對にして我輩の希望を空ふしたるこそ遺憾なれ彼の會社の保護金云云の議の如き實に商安の妨害にして我輩の曾て其非を論じたる所なれども議會の多數は何の見る所ありてか遂に之を議决し郵船會社の補助金は八十八萬圓を五十萬圓に■(にすい+「咸」)じ炭礦鐵道會社の保護は全く之を廢したり斯る急激の議决は固より實際に行はる可きに非ざれども我輩は之を議會が商安を蔑視するものとして大に論ぜざるを得ず先づ郵船會社の事に就て之を云はんに會社創立の事情及び其契約の次第は姑く擱き單に議會の精神より見るも抑も今の會社に如何なる落度失策あり又其株主に如何なる罪あればとて斯る不親切の議决に及びたるか會社の事業の小規模にして日本の國力に割合し航海線路の擴張せざるは第一其資本の不如意なると又政府の保護も唯その損失を償ふを目途として其他に及ばざる次第なれば是れは致方なしとして會社創立以來株の賣買を見るに其の高は非常のものにして明治十九年三月より本年一月に至るまでの間に株式取引所にての出來高は凡そ百廿萬株以上なりと云ふ賣買の頻繁なる以て思ふ可し左れば其株主なるものは終始一定のもののみならず殆んど日日夜夜に其變更を見るものにして或は創立以來株券の記名を變ぜざるものにても内實は他人に抵當として金の融通を謀るの類も少なからず而して其直段は時時昂低一ならずと雖も明治二十二年二三月の頃は九十圓以上の高價を顯はしたることさへあり今九十圓乃至八十圓の價を以て會社の株を買入れたる者又これを抵當にして金を貸したる者は自から私有財産の安全を信じて疑はざる最中に議會の議决が忽ち其株式に影響して遽に非常の下落を催ほすときは所有者は夢の間に財産を奪はれたると同樣にして斯る不安心の有樣にては日本社會に商賣繁昌の望はある可からず既に昨冬右の建議の議塲に出づるや會社の株は俄に十圓方の下落を呈し總株數の上にては實に二百十五萬圓の相違を生じたり議會の一言二百十五萬圓の相違ありとすれば若しも今回の議决が實際に行はるるに於ては會社の面目は忽ち一變して株主の倒産は無論、その災難は延いて商賣社會の全體に波及す可し我輩は今日の實際に萬萬この事なきを信じて安心するものなれども議會の精神に至りては商安を蔑視し國の爲めに親切ならざるものとして大に其非を鳴らす者なり抑も國の商賣を擴張する其道は多岐なれども今の日本の大勢より云へば航海を奬勵するは最も其急務なりと云はざるを得ず然るに今日の如く全く一會社の營業に一任し日本船の航路は國の沿岸を除くの外僅に上海に達するに過ぎざるの有樣にては到底商權の擴張を見るの期はある可らず議會の人人が若しも國の爲めに謀るの親切あるに於ては何は兎もあれ先づ第一に航海の業を奬勵するの計畫こそ願はしけれ英國の航海が今日の隆盛を致したるは種種の原因もあることならんと雖も同國に航海法の設ありて航海の業を保護したるもの與りて力ありと云はざるを得ず今や議會の人人は正に立法の職に在るものなれば國家遠大の計の爲めに航海の法を制し大に其業を奬勵して東洋の諸港は申す迄もなく地中海太平洋の航路をも開き國の商賣の擴張を謀るこそ其本分なる可きに其計此に出でずして些些たる保護金にまでも容喙し會社を苦しめ株主を驚かし一國の商安を動搖せしめて自から得得たるは我輩の更に感服せざる所なり (以下次號)