「商安を如何せん」
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時事新報に掲載された「商安を如何せん」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
郵船會社の事は前號に述べたる如くなれども炭礦鐵道會社保護廢止の一事に就ても我輩は
國の商安の爲めに其非を斷言するものなり議會の論點は主として其賣渡の始末を咎むるも
のゝ如くなれども是れは自から別問題なれば後に述ぶる事となし扨その發起人及び株主た
る者に如何なる不埒落度ありやと云ふに彼等は唯金を出して之を買受けたるのみにして且
政府と公然の約束もあり其物は既に私有の財産と心得て國の法律の下に安全を疑はざるも
のなり然るに其賣渡の事情を以て單に會社株主を苦しむるは方角違ひなるのみならず既成
の約束を破りて財産の安全を害せんとするは沙汰の限りと云はざるを得ず抑も會社の創立
は一昨二十二年の末にして時日は新なりと雖も法律の保護に生活する社會の人心は只管私
産の安全を信じて疑はざるが故に株式の賣買は其安全の信仰と共に行はれて既に昨二十三
年一月より本年一月に至るまでの間に取引したる株式取引所の出來高は總計凡そ三十五萬
四千株なりと云へり一年間の賣買には隨分夥しき數なれども萬一にも保護金廢止の議實行
せらるゝに至らば其轉々賣買の間に株を買入れたる今日の新株主は勿論、之を抵當にして
金を貸したる者も忽ち財産の安全を失ふことにして若しも政府が實際に斯る非擧を行ふて
差支なきものなれば公債證書なり又は地券なり政府は勝手次第に其價格を左右し得るこ
とゝなり人民の私權は全く無きものと覺悟せざる可らず(前年政府理財の當局者が公債を
整理すると稱して整理公債證書を發行し樣々の方便を以て從前七分利のものを五分利に下
らしめたるが如き實に非常の劇變にして我輩は今に至るまで之に服するを得ず其餘弊の波
及する所に就ては別に論ずる所ある可し)左りとては驚入たる次第にして我輩は飽までも
其非を訴へんとするものなり元來政府が炭礦鐡道に保護を與へたる趣意は會社が政府より
買受けたる手宮幌内間及び幌内郁春別間の既成鐵道の外に北海全道に運輸交通の便を開き
且つ開拓事業を翼賛する云々の旨を以て室蘭港より空知太に達する線路及び其線路より夕
張炭礦空知炭礦に達する兩支線を新に布敷するの計畫を定め政府は即ち此新線路に對して
一個年五朱の補給を約束したる其代りに命令書第三條に於て北海道農産物にして製造を加
へざるものは定額賃金の半額を以て之を搭載し又官の保證ある北海道移民及び其携帯する
日常必要品(家具衣類農具)に限り無賃にて搭載す可きの義務を負はしめ而して其命令書
は利子を補給する年限内有效のものと規定したり左れば政府が中途にして約束を變じ利子
の補給を廢するときは其命令は無効に屬するが故に好しや最初の計畫通り室蘭空知太間及
び其他の線路は年を逐ふて落成するとするも會社は全く社利の爲めに營業するものにて前
記命令書の義務を負はざるは勿論、北海道の如き未開の地を通ずる鐡道は内地の線路に比
して乘客荷物も少ければ其運賃も自から高からざるを得ずして會社は収支の損u上より運
賃を引上ぐることならん誠に當然の事なれども之が爲め目下の急務なる開拓移住の事業に
は如何なる影響を蒙る可きや智者を待たずして知る可きのみ又更に一歩を進めて考ふるに
會社の資本六百五十萬圓の金額中百五十萬圓は各炭山の起業費並に既成鐵道買受の代金及
び其改良費に充て殘り五百萬圓は即ち政府より利子の補給を得て新線路の起業費に供する
者なれども本來會社の私を云へば鐵道は既成の線路に止め單に炭礦の採掘運搬のみに從事
するときは其利uは非常の者にして實際の經驗に於て既に三割九分の純uありとのことな
れば政府との約束なきに於ては更に新線路を企つるの勞もなくして然かも利運は萬々歳な
る可し政府より其約束を破りたるこそ幸なれ今より手を縮めて新線路の擴張を中止し之が
爲めに集めたる資本は夫々株主へ割戻し既成の線路のみを守りて其利を永ふす可しと覺悟
を極めたらば如何其覺悟は何人も外より云々すること能はざれども斯くては會社の繁昌す
ると同時に北海道の事業は萎靡振はずして他年後世今の議會の人々に北海道開拓の功を遲
からしめたるの榮譽を歸するに至る可し議會の人々は果して此榮譽を甘受せんとするもの
なるや否や顧ふに北海道の計畫は一にして足らざれども眼前に差迫りたる一事は彼のニカ
ラグワ運河の開鑿にして今後五年の間に工事落成して太平洋の新航路開くるに至れば箱館
港は石炭供給の中心と爲り世界の船舶並に輻輳するや疑ふ可らず我輩は今より其機に先ち
炭礦鐵道の線路を箱館に延長し(室蘭線は中止するも)大に石炭輸出の便を開き兼て北海
道開拓の業を成すの必要を感じ之が爲めには更に政府の保護を促さんとするものなれども
(函館港及び炭礦鐵道延長の事は前日の紙上に掲載したるニカラグワ運河と題する説の續
稿中に更に論ずる所ある可し)議會の所論は至極活溌手輕にして國の商安などは之を度外
に置き百年の長計に思ひ至らずして自から其名譽を輕ずるが如き我輩の聊か感服せざる所
なり
(以下次號)