「ニカラグワ運河餘論 一」
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時事新報に掲載された「ニカラグワ運河餘論 一」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
船舶載荷量制限の必要
前日來引續き紙上に掲載したるニカラグワ運河の説は世人の注意を惹きたること少なからずと見え書を我社に寄せて其利害を論ずるもの多き中には或は運河の工事を以て全く架空の事となし其成功を疑ふものなきに非ず其説に據れば運河の線路百六十哩の内百三十哩はニカラグワなる淡水湖及び其湖水より流るる川流を利用する計畫なれども其他の開鑿を要する運河には水閘を設けて船舶を通ずるものなれば海面と湖面とは固より平凖ならずして湖水は依然として淡水の性質を失はざるや明なり然るに海水と淡水とは其水壓(即ち船を浮ぶる力)に強弱の差あるが故に運河を通過する船舶が淡水に入るや忽ち沈沒せざるを得ず其邊の掛念は如何す可きやとのことなれども是れは全く取るに足らざるの説なりと云はざるを得ず海水と淡水と壓力に差違あるは勿論なれども其差は極めて僅少のものにして通常積荷の船舶が海水より淡水に入りたりとて忽ち沈沒す可き程のものに非ず若しも淡水に遭ふて沈沒を免れざる如き船舶ならば大洋の風波危險に堪へざること勿論にして其構造既に宜しきを得ず尋常の航海にも適せざるものなるや學理上に明白なる道理なり左れば海水と淡水と壓力の差違を以て運河の無効を云云するは一塲の杞憂論たるを免れざれども我輩は此説に就て船舶載荷量制限法の事を想起したれば茲に注意者の厚意を謝し聊か其事に論及せんに近來我國にては諸種の規程嚴重にして馬車人力車に至るまで夫夫乘客の制限あれども危險の最も大なる船舶には未だ積荷量の制限なし日本形の船は航海に危險なりとて五百石以上のものの製造を禁じたれども西洋形の汽船帆船にても積量の制限なきときは其危險云ふ可らざるものあり既に昨年九月郵船會社の頼信丸川崎正藏氏所有の布引丸が紀州近海にて沈沒したる時に同じ航路中に在りて同じ危難に遭ひたる郵船會社の秀郷丸が獨り其難を免れたるは全く積量の度に由りたるものなりとの説もありと云ふ兎に角に今後航海の業を奬勵し其繁昌を見んとするには保證なり制限なり種種の手段も必要なれども載荷量制限法の如きは差當り急要のものなりと云はざるを得ず今昨年十一月の工學會誌に譯載したる英國の載荷量制限法を左に抄記せんに
船舶は過量の荷物を搭載する時は其沒水部を大にすると同時に亦不相當に其水上部の高さを低くするを以て激浪は屡屡艙、其他甲板上の諸口より艙内に侵入して終に之を沈沒難破せしむるの實例少しとせず英政府ボルド オヴ トレードに於て此災害を防止するの目的を以て今より十八年前既に一法律を制定發布し總て英國所管の船舶は皆其相當の載荷水線を確定し之を明示するに船體中央部兩舷腹の水際に施したる圓輪を以てし其載荷して該水線以上迄沒水するを禁制したり而して右相當載荷水線は素より諸種の條項に參照して始めて確定すべき者にして例へば船の大小長短廣狹深淺は無論其構造の堅否、年齡、修繕の周到なるや否や荷物の種類其荷積方法の巧拙并に航行方向の異同等は凡て此水線の位地を上下せしむべき者なれば之を確定するは容易の業に非ず徒に之を人民各個に放任する時は大に粉雜異同を生じ其障害少小に非る事を視しにより今より六年前英國議會に於て載荷水線委員なる者を撰定し之をして專ら前記の條項に參照調査して精細なる載荷水線規則を制定せしめたり又ロイド社に於ては今より十六年前より既に着着理論と實驗に徴して研究したる結果として同樣の規則を編成し(譯者曰く此規則は今より九年前より實行せり)從來同社の試驗を經たる諸船中其水上部の高さを制限し妄りに過量の荷物を登載せざる事を務め其船持主に於ても欣欣然として之を許諾せし例少しとせざりき
然るに右等の諸制限あるに關せず從來の情况に就て之を觀るに英政府は毎に斯る規則を嚴行せずして寧ろ之を寛大に放置するの傾跡あるを免れず乃ち從來船舶持主は各自勝手の位地に於て其所有船舶の水際に圓輪を畫き其反則頗る著明なるに非ずんは皆之を默許に附するの姿なれば船舶已に過分の荷物を登載して最早危殆の地位に差迫りたりと雖も其水線は尚ほ圓輪の位地に達せざるにより其船員は徃徃其欺く所となり安んじて航行を試み瑣瑣たる激浪に遭ふて忽ち沈沒するの實例轉た之れありとす
今度英政府の發布したる條例は上記の弊害を掃去せんと欲する者なり則ち來る十二月九日以降同國所管の諸船舶は總て皆ボルド オヴ トレードより交附したる船舶載荷水上部證書を有し且其中記入せる載荷水線と同高に於て船舶兩舷腹水際に圓輪を施塗する事を命令せり而して此載荷水線は載荷水線委員の編成せる諸表に基きて確定せる者なりと雖も船舶持主にして若し不服の廉之れある時はボルド オヴ トレードに願濟みの上之を變更する事を得せしめ又斯る變更は其伺願の都度ボルド オヴ トレードの認可せる諸會社(例へはロイド社或はペリタス社等の如し)の試驗を待て實行すへき者となせり
右の條例は素より單に自國所管の船舶に實行すへしと雖も諸外國所管の船舶は尚ほ依然として重荷を登載航行するは無論なりとす而して將來諸外國の立法官の教育の程度亦た英國立法官の如く能く船員生命の貴重なる事を覺知するに至るまては重荷よりして惹起す災害は到底全世界を通じて一掃する能はざるは誠に慨嘆の至りなりとす(去る八月のエンヂニアより拔萃)
我輩は航海事業奬勵の事に關し大に意見を陳して我立法者の注意を促さんとするものあれども序ながら船舶載荷制限の事に就き聊か茲に一言するものなり