「政局は猶お舞台の如し」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「政局は猶お舞台の如し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

政局は猶お舞台の如し

前號より引續きて當局者が政府を維持せんと欲せば洋語ポピユラリチーの意義を心に會得

して人望を求むるの心構を一新すべし之を一新するは遺傳の性に戻りて直に斷行すること

能はずとならば是非に及ばず内閣互に一致して其决心を共にするの外に策なしとの次第を

連載せしが爰に又一の難事あり一致と申せば誠に無造作の樣なれども其一致は如何にして

一致すべきや甲は曰く余が計畫する所に從て一致せられよ乙も亦曰く余が計畫する所に從

て一致せられよ丙丁戌巳何れも同斷にして己れが所思に一致せしめんとこそすれ他の意向

に一致するを好まざるは實際に於て然るものゝ如し斯ては所詮埒明かざる次第なれども抑

も此の如く人に服するを避けて己れに同ふせしむるの一方に偏し互に毫も讓るを知らざる

其因縁は何くに在るやと尋ぬるに必竟濫りに政事を重ずるが故なりと云はざるを得ず元來

日本人の風として政局は恰も人間榮達の靈塲と心得これを尊重すること極めて切にして男

子世に生る一たびは此靈塲に入りて樞機に當り以て宿昔の志を伸べ以て斯民の輿望を収め

ん生涯の心事唯是れあるのみとて時、平なれば則ち亂を思ふ程の熱心なれば他人の之を占

有するを見ては頃刻も心を安んずる能はず一筋に他を排して自から立たんと欲すれば他も

亦これと同樣に突進して互に押合ふ其有樣を冷眼に眺むれば大入の木戸口に見物人の群集

するに彷彿たり大小相率ゐて滔々風を成すことなれば政治社會のみ獨り活溌にして自餘一

切の人事は殆んど空からんとするに至るも亦自然の所にして其活溌のますます活溌なるに

從ひ同じく政局に並び立つ者にても十人の心は正しく十色にして决して甘んじて他に服從

するものにあらず今の内閣に一致の難きも主として此邊の意味に外なけれども心を靜にし

てツラツラ人間生々の約束を案ずるときは政局何んぞ必ずしも獨尊の靈塲ならんや社會を

組成するには農事あり商事あり宗教なり學問なりおのおの缺く可らざる要用にして政事も

亦是れ其一たるに過ぎざるのみ醫者が病を治し工人が機械を造り乃至政事家が政治を行ふ

もイヅレ輕重なきものにして其執る所に從て社會に効益を與へ凡人に超越するときは自か

ら榮達の之に伴ふは必然の數なり然るを殊更に人類の約束を欺き政事を偏重して濫りに之

に熱し聊も熟考の餘地を殘さゞるは多年來我國人の迷にして夫の木像を禮拜して身を犠牲

にすると毫も擇む所ある可らず而して木像に凝る者は愚夫愚婦と稱せられ政事に凝る者は

堂々たる俊材なりと云ふ我輩の怪訝に堪へざる所にして今の政府の當局者が右等の道理を

聞いて心に了解せざるの筈なかるべし既に了解することを得ば豈又内閣の遂に一致せざる

を憂へんや抑も政局は猶ほ芝居の舞臺の如し俳優の巧拙は唯その人にあることにして扮裝

の役目によりて優劣あるにあらず忠臣藏に鹽谷判官となり大星由良之助となるも實際は固

より君臣の關係あるに非ず時としては由良之助却て早野勘平となり判官却てお輕に變ずる

こともあるべし唯見物の目を喜ばしめんが爲めなれば君臣を演じ夫婦を演じて臣は臣の如

く婦は婦の如く其能く眞に迫るを巧みなりとして君たり夫たるが故に等級も亦優れりと云

ふにあらず若しも由良之助が團十郎たり判官が福助たるの故を以て團十郎の不平を催ほし

舞臺の上に君臣の禮を紊すことあらば芝居の全面は奇怪至極のものとなるべし左れば内閣

員は政局を舞臺と看做し政府全體の安穩を謀らんが爲めに一人が總理大臣の地位に立つと

きは他は皆これに服從して相一致すること猶ほ由良之助の判官に於けるが如くし既にして

樂屋即ち私席に至るときは長兄少弟言語應對勝手たるべしと雖も演劇即ち政治の事に關し

ては各々旨を守りて紊す所ある可らず否らざれば内閣一致は迚も望む可らず政府全體の基

礎を危くすること芝居の全面を傷くるに均しく唯世間の侮を取る可きのみなれば政事も人

事の一部に過ぎず其人撰は芝居の役割に似たるものと開悟して安心决定するの外ある可ら

ざるなり

然りと雖も我國人が政事を偏重して濫に之に熱中するは亦是れ遺傳の病にして彼のポピユ

ラリチーの眞義を會得して人望を贔屓と决信すること能はざるが如く政事を輕視して尋常

一樣の人事となすは蓋し至難のことなる可し遺傳の根を托するや遠く且つ深くして之を一

朝に截斷するは固より容易ならずと雖も亦一方より之を見れば古語にも居は其志を移すと

云へり立憲政治の時勢の中に居り又今の政府の事情に顧みて事の果して急要なるを知らば

居と共に志を移して空しく遺傳の爲めに誤られざらんこと我輩の敢て勸告する所なり