「平和的國防」
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時事新報に掲載された「平和的國防」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
往昔社會の組織の未だ單純なりし頃にありては常に攻伐を事としたるが故に國に重んずる所は專ら兵力にして他の農を勸め商を務むるも都て是れ兵力を完實ならしめんが爲めに過ぎざりしが近世に至ては漸く其趣を革め兵力を養ひ武備を擴張すと雖も其目的は戰爭に非ず實は商賣を保護して利得を收めんが爲めなれば今と昔を比較するに兵力と商利とは恰も主客の地位を替へたるが如し即ち今日の務むる所は攻伐にあらずして商賣なり強兵の競爭にあらずして富國の競爭なれば之を列國競爭の進化と云ふて可ならんか其爭ふや既に商利にありとすれば商利を傷けても猶ほ兵力に訴へんとするが如きは萬萬ある可らざる道理にして其これあるは事情の餘儀なき塲合に限るべきのみ此故に國交際の間柄は兵力強しと雖も必ずしも敵なきを保す可らず商利の關係大なるものありて始めて離る可らざるの情誼を生ずることなれば其關係の大なるものは小國と雖も交誼を破る可からず其關係の小なるものは大國と雖も之を敵とするに易し各國の向背を决するや率ね此の如きものにして商利の關係は間接に其國の安全を保護すること遙に百萬の精鋭を蓄ふるに優るものあり例へば英國と米國との交渉を見よ南北戰爭の時に際し兩國の間に有名なるアラバマ事件の紛紜を釀して今にも破裂に至らんとしたるもの屡屡なりしかども遂に英國は一歩を讓り戰雲を見ずして無事に落着したるは何故なるや又過般の漁獵事件の如きも新聞紙の報ずる所は事態頗ぶる急なりしに容易に銃砲の沙汰に及ばずして幾回か極所に迫りて又幾回か立歸り今に至るまで猶ほ曖昧の中に空しく煩悶するは是れ亦何故なるや畢竟その急機に詰込むは威嚇にして兩國の間に於ける商賣上の關係は絶んと欲して絶つ可らず一朝事の破るるに及んでは爲めに商利を傷けて自國民を砲撃すると同樣なればサシモのアラバマ事件も平和の局を結びたる次第にして漁獵事件とても葢し恐くは危急の聲のみにして止むことならん或は英國が支那に結んで露國を敵とするも亦夫の商利の目的により向背を决するの一例にして平時と急機とを問はず國交際の極意は實に商賣上の利害如何を顧るのみにして尚ほ各人の私交上に於て利害損得の關係大なるものは交誼ますます親密にして又假令へ雙方に憤怒を催ほすことありとても容易に疎外す可らざるに反して其利害を感ぜざる者は多少徳義に缺くる所あるにもせよ忍んで敵となり仇となるを辭せざるものに彷彿たり私交と國交と何の相違か之れあらん此を以て彼を推せば思ひ半ばに過ぐるものあるべし故に西哲の言に世は平和の戰爭なりと云ふ戰爭にして既に平和的なりとせば國防も亦安んぞ平和的ならざるを得んや
國の安全を保護するに付て商利の力は此の如く大にして且つ要なり然るに今の國防を論ずるものは專ら兵力の一■((「黒」の舊字体のれんがなし+「占」)+れんが)に留意し砲臺建設せざる可らず軍器製造せざる可らずとて復た商利の關係如何を顧るものはなく宛然攻伐時代の舊筆法を因襲して兵戈の外戰爭なく又國防なしと認むるものの如し若しも國防を計畫するに兵戈の戰爭を目的とせんか戰爭には一國と對するあり兩三箇國の同盟軍と對するあり其大敵に當りて充分の完實を見んとすれば啻に費用を要すること莫大なるのみならず一兵を増せば又一兵の不足を感じ到底際限ある可らず好し軍略上或る■((「黒」の舊字体のれんがなし+「占」)+れんが)までの兵備に止めて乃ち滿足するを得べしとするも此の如きは决して國防の手際の妙なるものと云ふ可らず兵法に言はずや百戰百勝は善の善なるものに非ず戰はずして人の兵を屈するは善の善なるものなりと今の時に當り戰はずして人の兵を屈するものは夫れ唯商利の關係に由るあるのみ左れば我が國防を完からしめんと欲する者は大に商賣の道を勵み進んで外國に利を營むと同時に外人をして我が國土に業に就かしめ利害の關係を密にして其互に相破る可らざること彼の英米兩國間の如くならしむるこそ肝要にして實に今日の急務なりと我輩の信ずる所なり然りと雖も鄙見固より今の海陸軍を全廢せんと云ふには非ず國に一兵なきは外侮を受くる所以なれば強兵の策は飽まで之を務むべしと雖も主とすべきは商利の關係なるが故に軍備も亦他の諸國に傚ふて商利を保護するの目的に改め着着富國の大計を講じて以て平和の戰爭に備ふるは國家生存の至要なる可し