「數理にあらず感情に在り」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「數理にあらず感情に在り」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

數理にあらず感情に在り

政府は國會の議决に由り六百萬圓の減額に應じて部内の改革を行ふ可しと云ふ政府が國會

の議决を重んずるは誠に美事にして其改革も從來の小細工と異にして必ず見る可きものあ

ることならんと雖も抑も國會が六百萬圓の減額を議决したる其精神は單に金額上の事のみ

なるやと云ふに我輩の所見に於ては必ずしも然らざるが如し若しも其減額が全く數理より

出でたるものにして他意あらざるに於ては政府の事は甚だ容易にして唯その減額の改革だ

けを行へば以て世間の口を塞ぐを得て今後は全く安心なれども本來今の人民が政府に對す

る不平は其原因頗る深きものにして單に政費の數理上のみにあらず即ち其不平は感情より

生じたるものにて年來政府の處置は人民の感情を損すること甚しく無謀短慮の輩に至りて

は憤に堪へずして非常の手段に及び却て其身を誤りたるものもある程の次第にして其他一

般の人民と雖も誰一人として政府に贔屓するものとてはなく少しく心あるものは成る可く

之に遠かりて喜憂を共にするを屑しとせず又政治の野心あるものは頻に其非を鳴らして直

接間接に國中の人心を動かし只管政府に反對の趣向のみを工風したれども政府に於ては毫

も顧みる所なく雙方ともに互に感情を惡くして以て今日に至りたることなれば此惡感情は

一朝一夕にして容易に消散す可きに非ず左れば國會議塲の初論を見るに表面は全く金額上

の爭に在るが如くなれども實際は然らずして其本意の存する所明に見る可きが如し若しも

議會の精神にして果して金額の節減に在るころならば宜しく正當の順序を踏て一厘半毛に

ても唯實際に減額の多からんことこそ望む可き筈なるに然るに議塲の論鋒は此方向に出で

ずして只管政府の急所を狙ひ之を衝としたるは俗に云ふ喧嘩仕掛の勢にて傍より之を見れ

ば議會の本望は寧ろ豫算の不成立又は其解散を欲するものなれば些々たる政費の增減の如

きは必ずしも人民の深く喜憂する所に非ず然るに政府は議會の議决を眞艫に受け部内の改

革を行ふと云ふ其改革の實は何れにしても美事なるに相違なけれども若しも其改革の一撃

を以て十分に議會の望を滿足したるものと心得、未来永劫の安心を期するが如きこともあ

らば誤解の甚しきものにして來期の國會を待たずして自から其誤解を發見するの機に到着

せざるを得ず故に政府が來期の國會を滿足せしめんとするには部内の改革を行ふ其上に人

民の政府に對する感情を察すること大切にして其感情の何れの邊に在るやを知らば之に處

すること誠に容易なる可し我輩の所見を以てするに從來政府の處置は敢て壓抑專制の實あ

るに非ざれども自から居ること高くして人に親しまず兎角愛嬌に乏しくして人心を得るに

巧みならざるが如し即ち本來の性質は敢て惡性のものに非ずと雖も俗に所謂附合ひ惡き達

にして人に嫌はるゝものなれば先づ其欠典に注意して心事を改め愛嬌を賣るの手段肝要な

れども其他、外の形に現はれて人の感情を害するもの一にして足らず彼の官宅車馬の豪壯

華美なるは著るしく人目に觸れ最も世間の感觸を惡しくするものにして事に益なきが故に

凡そ外觀虚飾に屬する斯る種類のものは一切廢止して差支ある可らず又位階官爵等の如き

も我輩の屡ば述べたる如く今の文明の政治には眞に兒戯の沙汰にして偶ま以て俗界の羨望

を買ふに過ぎざるものなれば若しも出來得ることならば共々に之を廢する方、然る可し斯

くて政府が部内の改革を行ふと同時に心事を一轉して外に對する從來の所作振を改め官宅

車馬を始めとし人の目に觸れて其感情を惡くするの嫌あるものは一切これを廢し專ら愛嬌

を旨として廣く世間の人に接するときは人民の感情より生じたる不平も次第に消散して來

期の國會も或は觀を改むることあらんなれども若しも政府の所見此邊は在らざるに於ては

例令へ國會の議决を重んずるの意味にて正直に減額の實を實行すと雖も國會の人々は到底

これに滿足せずして今後ますます紛擾を見るの外ある可らず如何となれば今の人民の不平

は數理より出るにあらずして感情より生じたるものなればなり我輩は政府に向て呉れ呉れ

も方角違ひの處置なからんことを希望するものなり