「六百萬圓の剰餘金」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「六百萬圓の剰餘金」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

六百萬圓の剰餘金

今の政治論家が商賣の思想に乏しきは我輩の常に慨嘆する所にして之が爲め間接直接に一

國の經濟上に損する所少なからざるを見る可し例へば地租輕減の一事は年來政論家の喋々

する所にして既に衆議院の議决を經たる程の次第なれども畢竟商賣の思想なきが爲めにし

て若しも議會の人々が米の賣買なり生絲の取引なり商賣上の利害に注意し隨時その邊の處

置を誤らずして兼て又官民間の繁文を除くの工風さへあれば國の經濟上に益する所少なか

らずして人民の私に於て間接に蒙る所の其餘澤は單に地租五厘の輕減に止まらざることな

らん然るに其人々に絶えて此邊の考案なきは誠に遺憾の至りにして我輩は今回豫算案の議

决に就て殊に其事實の著るしきを認むるものなり抑も廿四年度の豫算案は議會にて種々の

修正を經たる末、遂に政府と恊議の上其歳出に於て六百五十餘萬圓を節減して歳入には毫

も修正する所なく單に歳出を減じたるものなれば此六百五十萬圓は即ち剰餘金として國庫

に積置き本年度中に於ては如何なる事情あるも使用すること能はざるものなり盖し議會の

本意は地租の輕減を目的として右の節減を爲したることならんなれども元來地租輕減の事

たる容易に行はる可らざるものにして好しや衆議院に於て議决するも貴族院に如何なる異

議あるやも計る可らず然るに實際の决着をも顧みずして輕卒にも斯る節減を爲し政府にて

も亦これに同意したるは雙方ともに輕忽の譏を免れざるものなれども其は兎も角もとして

扨この餘剰金の始末は如何にす可きやと云ふに之を來年度に繰越す外に道なきものにして

固より豫算の事なれば實際支拂の上にて過不足あるは免れざる可しと雖も豫め剰餘金を見

込みて政府の歳計を組立るの談は古今東西の事例に於て未だ聞かざる所なり元來政府の歳

入なるものは國中の流通貨幣を引上げて之を一處に集むるの媒介たる可きが故に其支拂の

方法、宜しきを得ざるときは世間の金融に非常の影響を及ぼすは勿論、若しも巨額の剰餘

金を生じて之を國庫内に密閉することもあらば金融市塲の恐惶一方ならざるものある可し

西洋の經濟學者の言に英國にて二千萬磅の金を英蘭銀行の金庫に藏むることもあらば倫敦

市塲の金融は忽ち逼迫して英國の商賣上に容易ならざる景况を呈することならんと云へり

我本年度の剰餘金は僅に六百萬圓の額にして且つ納税の期限等もあれば實際に於ては其六

百萬圓も終始國庫内に蟄伏するものに非ざる可しと雖も兎に角に年度の終に至れば其全額

を國庫に見るものにして若しも折も折とて其時期に至り世間に金融の逼迫を告ぐることも

あらば六百萬金の蟄伏も猶ほ多少影響する所なきを得ず左れば國の經濟の任に當るものは

六百萬圓の金額と雖も决して輕視す可らずして其収支の方法は大に注意を要するものなり

即ち我輩の持論たる我航海業の奬勵費に用るか、若しも一時に英斷の勇なくば取敢へず公

債の償還又は其他の事業費にして國の生産に關するものへ差向く可き筈なるに議會の人々

は單に地租輕減の一方にのみ熱心して他を知らず唯一直線に進行したるが故に却て斯る不

都合を見たるものにして畢竟その人々の平生に商賣の思想なきが爲めなりと云はざるを得

ず或は右の剰餘金は些少の額にして之が爲めに金融上に大なる關係もなかる可しと云ふ者

もあらんかなれども其始末の次第に至りては商賣上の精神に背くものと云はざるを得ず既

に國を開て海外に對し國家の生存を謀るには眼界を廣くして商賣の要を忘れざること國民

の本分なる可し