「移住保護」
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時事新報に掲載された「移住保護」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
移住保護
國の經濟の爲め又治安の爲め我が國民中海外に移住せしめざる可らざるもの凡そ三種あり
曰く有力商人曰貧窮勞力者曰く浪々壯年生これなり
有力商人の移住を必要とする理由は凡そ通商立國の主義によりて廣く世界の利を網せんと
するに第一要は其通商の各地に自國人の居留するありて營業の根據を立て恰も東道の主人
となりて本國と互に應援することなれども其主人の事たるや固より赤貧無頼者の能く任ず
可き所に非ずして必ずや中等以上の有資家を俟たざる可らず人或は斯る有力家の本國を去
るを見て恰も淋し〓思を爲し國の爲めに不利なりとて憂ふる者もあらんなれども永遠の利
害を察すれば决して意とするに足らざるものなり毎度我輩の云ふ如く國内の人口あるは猶
ほ〓木に魚あるが如きものにして其ますます繁殖するに從ひ脆弱なるものは優勝劣敗の勢
に制せられて殆んど生育の見込なきに至ると雖も其優者を他に移して〓(口+儉の右)〓
の餘地を廣くするときは劣者も亦曩の優者と同樣に發達するの常なれば中等以上の有力者
なりとて惜む所なく成るべく之が外行を促し他邦の富を拾ふて遙に國〓をなさしめ同時に
國内の劣者を優者たらしむるこそ〓〓の〓〓のみか必らず爰に出でざる可らず然るに從來
の有〓を見れば苟も此等の有實家にして海外に渡航し永く居を定めて營業せんことを企つ
る者は寂々寥々晨の雲の如く通商の前途殆んど絶望と云ふも不可なければ之を今日に保護
奬勵するは洵に國務の急要として爭ふ可らざる所のものなり蓋し有資家にして外行の志の
振はざる所以は主として航海の不便にして横濱を去るこ〓〓〓直ちに外船の配下に起臥せ
ざる可らざるに由〓ことれ〓ば國の通商を保護するの目的を以て國家は宜しく日本汽船の
航路を助成し萬里遣航の安心と便利を〓〓〓くべきのみ是れぞ有力商人の移住を保護する
唯一の方便なるべし
有力商人の移住を保護するは國務の急要に相違なけれども何れかと云へば利を興さんが爲
めの計畫なり貧窮勞力者に至ては即ち然らず彼等の活路は人口の増殖と文明の利器とに狭
められて今や既に飢餓に瀕し漸く經世の難澁を釀しつゝあるものなれば焦眉の危きを救は
んが爲め至急に何分の方策を講せざる可らざる所なれども農業經濟の極意は農民を域外に
移住せしむるの外なき理に均しく今の我内地にては假令へ多少救濟の道あるにもせよ到底
充分を望む可らざるや明白にして一條の血路は唯海外移住あるのみの塲合となりたる次第
は社會の層底を窺ふ者の能く知る所なる可し唯彼等は多年の習慣と無氣力なるとによりて
未だ甚だしき不穩の擧動にも至らざるが如くなれども看す看す慘境に沈淪せしむるは同胞
の義にあらず又經世の道にあらず况んや小民無氣の如くなるも窮すれば爰に濫するの虞あ
るに於てをや國家の義務として救急の策なかる可らずと雖も單に之に向て移住せよと勸む
ればとて移住には自ら入費を要することにして貧民の身として自から之を辨するは固より
望む可き所に非ず今に至るまで移住の流行せざる所以は啻に故山に戀々するの痴情のみに
非ず其故障は專ら費用の點に在ることなれば徒らに之れを慈善家有志家の義擧に托するの
みに止まらず經世の救治策として國家は宜しく其入費を支給するの便路を設け或る規律の
下に殖民の大事を計畫すること今日の必要なる可し
次に浪々壯年生は如何と云ふに其始末の困難なるは更に貧窮勞力者に勝るものあり學問の
ますます流行するに從ひ年々書生の諸學校を卒業する其數は實に少なからず况んや卒業に
至らずして中途に退學したる者等を合算するときは日本國内に充滿たりと云ふも不可なか
らん此等の壯年生は如何に其身を處しつゝあるや金滿家の子弟は退て産を守るに足るべし
と雖も多くは是れ赤手空拳にして何か糊口を求めざる可らず顧れば政府部内に人を容るゝ
の餘地なくして民間の實業は固より望む所にあらず進退谷まりたる其果は所謂壯士となる
も自然の所にして其外形に現はるゝ擧動を見ればこそ如何にも忌はしき限りなれども其内
心を探れば大に酌量せざる可らず必竟政府が經世の活法を知らずして敎育の一方に偏し人
の産を問はずして人の知識を高尚にし以て天下の子弟を誤りたるの結果なれば時々姑息の
法を施して之が鎮壓を試むると雖も更に其甲斐あるを見ず隨て壓すれば隨て激し隨て散す
れば隨て集るべきのみ今後逐年此種の浪々生を加ふるときは一轉して詐僞師となり再轉し
て社會黨となるの豫後明白にして如何なる不穩を釀出するに至るべきや國の經綸を以て任
ずる者は深く茲(玄+玄)に留意せざる可らず左れば之が未然の豫防を施すも亦是れ國務
の要用にして其目前の擧動の忌はしきを見て其本來の病根を療治するの工風を怠る可らざ
るは洵に國家に親切なるものゝ思到る所なるべし其方法は他なし政府は自ら其光明を薄く
して書生をして官海を羨望するの念を絶たしめ同時に實業界の榮譽を高くして後進就業の
區劃を廣くするは我輩平素の一法なれども是は容易に望む可らず先づ以て時節到來を俟つ
の外なければ差向き救急の策として海外移住の右に出づるもの勿るべし壯年生は氣力あり
又智識あり海外に移住しても其効蹟は自ら彼の貧窮勞力者の比に非ずして他年日本の勢力
を世界に張る者は唯この壯年生ならんと雖も當初移住の入費を辨ずること能はざるの實状
に至りては貧窮勞力者と同樣の次第なるが故に是亦國費を以て支給せざるを得ず而して我
輩は此般の費用を惜むに足らずとなすのみか移住保護の最も急要なるものと信ずるなり
以上は事の梗概を略陳したる迄にして委曲の事情は讀者の同感を俟つのみなれば要は國内
區々の小政略を念とせずして經世の利害の爲めに决斷に踟〓(ちょ・足+厨)なからんこ
とを祈るに過ぎず移住のこと豈緩慢に付す可んや