「暴行者の吟味」
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時事新報に掲載された「暴行者の吟味」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
暴行者の吟味
露國皇太子殿下の御遭難に就ては天皇陛下にも取敢へず御見舞として昨日京都へ後發輦あ
らせられたる程の次第にして此一事以て我全國上下の人心が太子の御不幸を悲しむの情を
表するに足る可し抑も今回の事たる實に意外の變にして唯驚くの外なく喩へば山野に狩し
て不意に岩石の崩落に遭ひ猛獸の襲来を受けたるが如く海に航して機關の破裂したるが如
く風波の難に出逢ひたるが如く何人も豫想せざる所にして只管その不幸を悲しむの外ある
可らず思ふに今回太子の御來遊に際し我帝室を始として一般の人民に至るまでも歡待奉迎
の用意に他念なく滿腹の赤心を披て國賓を迎へんとしたる其眞情は既に天下に表白する所
にして之を疑ふものはなかる可し然るに其半途にして不慮の變に接し吉凶忽ち地を換へた
るは國賓の御身に取りての御災難は申上るまでもなく斯くまでに心を盡したる我帝室を始
め奉り全國の民心に於ても殘念至極の事にして其不幸を悲しむの情は更に一層の深きを感
ぜざるを得ず即ち此情は全國上下一般に感を同ふする所なり而して事をして此極に至らし
めたるものは惡みても餘りある一狂人の擧動なるが故に今度の勅語にもある如く速に其暴
行者を處罰し善隣の好誼を全ふして上下共に甘心すること一般の希望なえれども扨その暴
行者の人と爲りに至りては實に今回の事件に大關係あるものなれば之を罸するに先ちて精
密の吟味を遂ぐること急要なる可し盖し斯る折柄には徃々浮説臆説の傳はること少なから
ずして或は其擧動を目して政熱の爲めに發狂したるものならんなど云ふものなきを保つ可
らずと雖も我輩の所見を以てすれば犯人は全く生理上の發狂にして政治上には毫も關係な
きものと斷言せざるを得ず既に新聞紙上の記載に據るも暴行者は從前兩三回も發狂やうの
擧動ありしよしにて今度の事に就ても必ず發狂の所爲と認む可き根據に乏しからざれば此
際先づ適當の醫師をして其心身の有樣より更に溯りて遺傳血統の如何をも診斷鑑定せしめ
たらば或は其眞相を究めて生理上の發狂人たることを發見するに至ることある可し聞く所
に據れば犯人も他の刀撃を蒙りて負傷淺からずと云ふ今日に當り事の次第を明にして疑を
决す可きものは醫師の鑑定如何に存するものなれば呉れ呉れも大切に治療を加へ置き處罸
に先ちて相當の手續を盡し暴行者の果して生理上眞成の狂人たることを證明し以て少しく
全國人心の鬱抑を慰せんこと我輩の切に希望する所なり