「松方内閣と條約改正」
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本文
松方内閣と條約改正
松方伯が總理の就任に付き其條件として條約の中止を要求したりとは世間に傳ふる風説な
れども或は曰く伯の要求は必ずしも全く談判を中止せんとするものに非ず唯新内閣に於て
は是迄の談判を其儘引繼ぐに妙ならざるの事情あるを以て此際更に完全の案を製し之を提
出せんとの趣向なれば云はゞ其手續を變ずるまでにして條約改正其事を中止せんとの次第
には非ずと云ふ何れにしても條約改正の成行は新内閣の爲めに變態を生じたるものゝ如く
にして所謂完全の案を提出する云々と云ふものも其成跡は實際中止と同樣のものには非ざ
る可きやと我輩の竊に疑ふ所なり抑も今日の條約改正案は如何のものなるや我輩の知らざ
る所なれども談判當局の人々が之を提出して其事に取掛るには必ず内閣の一致を得たるも
のにして即ち今の松方總理の如きも時の内閣員の一人をして之を賛成したるに相違なかる
可し蓋し改正の事業果して國家の爲めに利あらば内閣一致して之を斷行し或は不利ならば
之を中止すること勿論なれども其中止斷行は一個人の出處進退に關係なきものにして伯は
前内閣の一員なりしなれば若しも改正を以て國家の不利と認めたらば當時に於て早く既に
之を論ぜざる可らず然るに今日に至るまで默々に附したりとありては不利と知りながら之
を傍觀したるが如くにして國家の爲めに不親切と云はざるを得ず左れば伯が就任に〓て中
止を要求したりとは實際にあるまじき〓なれども扨又完全なる案を提出する云々の説に至
りても我輩の解せざる所なり蓋し完全の案とは如何のものなるや知らざれども是迄の手續
を變へて更に完全のものを提出すとあれば現に談判中の改正案を以て不完全と認め更に十
分の改正を申出すの覺悟と見ざるを得ず勿論條約の改正は十分なる上にも十分を望むは一
般の情にして當局者に於ても然ることならんなれども我國の條約には自から從來の歴史あ
りて關係の古きものなるが故に其關係を離れて單に完全十分を望むは所謂出來ない相談に
して實際の談に非ざる可し然るに新内閣は從來の手續を止めて更に完全の案を提出するの
覺悟なりと云ふ其手段方法は兎も角も實際の成跡は或は中止同樣の觀を呈せざる可きやと
竊に疑ふ所なり抑も條約改正の事たる其關係する所、大にして所謂完全の改正は容易に望
む可きに非ざれば今日の處にては出來得べき丈の手段を盡し一日も早く其所得を我に収む
るを以て國利と爲さゞる可らず例へば前年大隈伯の改正案は五年を期して治外法權を撤去
し關税の割合は平均五分を引上ぐる趣旨なりしなれば若しも其案にして無事に行はれたり
しならんには今日の關税は一割の収入にして所得の少なからざる其上に今や其當時を去る
こと既に二年間なれば治外法權の撤去も今後三年にして其實を見しことならん然るに當時
の世論は右の改正案を國に利あらざるものとして漫に之に反對し又時の當局者も如何なる
所存にや談判を中止したる次第なれども今日に至りても更に完全なる改正の行はる可き模
樣なきが如し國利の上より見れば中止の爲めに損はあれども利する所はなしと云はざるを
得ず我輩の遺憾に思ふ所なり顧ふに近時條約改正の談喧しくて所謂政府の案と稱するもの
に反對するもの少なからず或は税權を一時に回復す可しと云ひ或は條約は對等を期し治外
法權は直に撤去するも内地雜居土地所有權は彼に許す可らずと云ひ銘々勝手の注文を爲す
ものゝ如し何れも無責任の説にして然も其精神の所在を尋ぬれば只難を當局者に責めて之
を窘むるの意味もなきにあらざれば深く論ずるに足らざれども今度の新内閣が其政略とし
て改正の談判を中止し否之を中止せざるも是迄の手續を變へ更に完全の案を提出すると云
ふに至りては我輩の解すること能はざる所にして若しも此説をして眞ならしめば其名義は
如何にしても實際中止と同樣にして新内閣は全く改正を斷念したるものと云はざるを得ず
知らず内閣の眞意は果して此邊に在るや否や我輩の敢て聞かんとする所なり