「景氣振作」

last updated: 2019-09-29

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時事新報に掲載された「景氣振作」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

景氣振作

露國皇太子の御來遊も大津の凶變によりて本國なる兩陛下の御心配を慰すること能はず去

る十九日を以てイヨイヨ御歸國の途に就かせられたるは又是非もなき次第なり我國人が上

下ともに之を傷み之を惜みて言葉に盡し難き其至情は幸に皇太子の洞見せらるゝ所となり

たれば此上は唯露西亞兩陛下に於て一日も早く御安意あらせられ兩國の交誼の長なへに親

密ならんことを祈るの外なければ我輩は一先づ爰に筆を止めてサテ首を回らして前後を顧

るに元來國賓來遊の一事は其關係する所極めて淺からざるものありしことにて第一に我が

經濟上の有樣に照せば既徃凡そ十年以來商勢殊に沈滯して殆んど一日も歡呼の實を呈した

ることゝてはなく金融漸く圓滑ならずして人々嚮ふ所を知らず一方に甚だしき緩慢かと見

れば一方に甚だしき切迫を現はし緩なるが如く急なるが如く其緩急不定の際に或は窒塞す

る者あり或は破壞する者ありて市上の光景殆んど恢復を望む可らず經濟の紊亂、商賣の萎

靡二十餘年來未曾有の極に達したるものと云はざるを得ず葢し其源因は彼の紙幣の濫發に

引續き其急縮の整理等都て財政の當を失したるものあるに相違なからんと雖も又一には商

賣社會の人が毎度の失敗に懲り今は風聲鶴唳にも誤まらるゝことゝ爲りて只管退守の謀に

忙しく貧者の貧にして購賣力なきのみならず富者も亦金を擁しながら節儉を主として恰も

貧乏人の風を學び貧富共に寂然として喪に居る者の如くなるは不景氣に萎縮してますます

不景氣を致すものと云ふ可し誠に憂ふべき事相にして心ある者は何とか救治の策を得んと

て頻に思慮を廻らし我輩も亦實に其憂を共にして事の意の如くならざるを歎息するもの久

しかりしに折しも國賓來遊の吉報に接したれば奉迎の歡に加へて或は此機を幸に萎縮した

る人氣を引立ることもあらんかと竊に經濟上に期する所ありたりしは葢し萬人同一の意衷

なりき素より露太子の一行あればとて俄かに大に我が商界を潤ふすべきにあらず積累の不

景氣に對しては九牛の一毛にも足らざること明白なれども歡迎の爲めにとて打沈みたる人

氣の急に引立つことなれば恰も旱天の驟雨に似たるものありて颯到一瀉こゝに奮興の機を

起し活溌の餘勢を以て續いて振作することなきを期す可らず即ち太子の來遊は間接に經濟

社會に生氣を與ふるの一助となる可きものにして商况沈滯の時節柄〔手偏〕その比の如く

ならんを祈るに切なりしに兇徒の一刃空しく百事を水泡に歸せしめたるこそ遺憾なれ此回

の不幸は啻に外交上のみに非ざるなり

然りと雖も事既に去る今更これを恨むも甲斐なし以前に立戻りて我が商界の不景氣を如何

にして救治すべきやは目下に講ぜざる可らざるの急要にして今日の所は宜しく活眼を開い

て大膽なる决斷を下だし經濟の復活再生を圖るの時節なる可し而して其方法に就ては世上

の所説自から一定せずと雖も今試に二三を枚擧して參考に供せんに曰く公債證書を特別に

保護するの小策を止め他の確実實なる諸會社の株券をも同樣に抵當の効用を有せしめて金

融の便利を廣くすべし曰く興業銀行を設立して同じく融通の便を開くべし曰く速に生絲、

鹽、油、綿等の相塲所を開設することを得せしめ賣買を滑かにして當業者の危險を免れし

め併せて其價格の標準を定むべし曰く國内大小の鐵道を政府の一手に買取り鐵道政略を一

新すると共に其株式の價を平準ならしむべし曰く官有鐵道の事行はれずんば民間に一大會

社を起して之に當らしむべし曰く外資を輸入して鐵道郵船その他諸會社の株金を填充せし

め低利の資本を以て事業の繁昌を計るべし曰く神社佛閣保存の爲め又は北海道移住保護等

の爲めに富籤の興行を許すべし抔とは專ら行はるゝ所なれども素より中には利もあり害も

ありて漫に一概に論定す可らず我輩に於ては豫ての持説もあり又今後の紙上もあることな

れば爰には暫く斷言せずと雖も兎も角も世間一般不景氣不景氣と唱へて唯沈滯の一方に陥

ゐり追々俗に云ふ火の消えたる姿とならんは如何にも安からざる次第なれば此際斷然の處

置を取りて商界に生氣を與へんこと切望に堪へざる所なり