「株式今後の運命は如何」
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時事新報に掲載された「株式今後の運命は如何」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。
本文
株式今後の運命は如何
近時經濟社會の状况は毎度本紙上に報道したる如く世上一般に不景氣の歎聲のみ高くして
曾て回復の望なく其凋衰萎縮の中にも株式市塲の慘状は又格別にして昨年來一日も活溌の
賣買を見たることなく日增に不味を加へて低落する其有樣は水の卑きに就くが如く今は底
直の底に達して殆んど底止する所を知らず若しも此上不時の劇變に遇ふて今一段の下落を
見ることもあらんには我國の工業は凡て瓦解破滅の外なしとて心あるものは痛心苦慮只管
救治の策を求めて先づ夫迄の無事を祈るの外餘念なかりしに大津の凶變は端なくも市塲の
安寧を破りて更に不味を增し僅か一兩日に諸株とも二圓方を突込みたれば左なきだに衰へ
切たる市塲の不幸は俗に云ふ泣面に蜂も啻ならず誠に見るに忍びざるの有樣なりき然るに
爾後商勢頓に一變して人氣俄に加り反動の勢當るべからず品によりては四五圓方も上進し
て春來絶て見ざる盛况を呈したるにぞ買ふものも賣るものも只事の意外なるに驚くの外な
く昨今の處は尚ほ多少の氣迷はあるものゝ兎に角に市塲の光景は前日の寂寥に引換へ恰も
死を起して生に回りたるが如し我輩は此局面に此吉相あるを見て直ちに工業前途の多望を
期する者に非ず一昻一低は相塲の常にして時に狂奔なきにあらざれば一時の商勢を見て敢
て輕忽の判斷を下すにはあらざれども竊に臆測を逞ふするときは或は今度の變動は眞に氣
運の到來して然るものにはあらざるかと思はるゝ處なきにあらず全體今の株式は如何なる
邊に價格を保て然るべきや精密に標準の在る所を求めんとするは誠に至難の問題なるべし
と雖も鐵道株の如き事業の確實にして少なくも五六分以上の配當を爲す可き株の價が遙に
其拂込以下に喰入るとは之を世間の金利に照し公債證書の市價に對比して權衡を失するや
爭ふ可らざるの數にして何れの點より見も法外なる安直なりとは何人も許す處なれども其
今日に至る迄權衡外に擯斥せられたるは畢竟此種の株式は株式自身に價なきにあらずして
株主に富豪を得ざるが爲めのみ自身の力量に叶はざる重荷を擔て不相應の働を爲さんとす
れば何時しか躓を生ずるは自然の結果にして遂には苦痛の餘に所有の株券を投賣にすると
同時に本人の信用は地に落ち又隨て其會社の評判をも害して市價の一低は一低毎に世人を
萎縮せしめて斯る法外なる安直を現したるものなるべし勢の然らしむる所人情の脆弱なる
今日に處しては如何ともし難きに似たれ共偖て此下落は遂に回復の望なきやと云ふに素と
是れ一時の波瀾に過ざれば其究極する所に至て早晩眞價を回復すること經濟自然の結果に
して其時期は盖し金穴に株式を吸収するの日なり今や株式は二年有餘も自然淘汰の間に曝
されて幾多の浮沈を重ね凋落するものは既に凋落して玉石の區別も漸く判然たる其の中に
生存者の前途多望なるは最早疑あるべからずとて衆口等しく株式の安直を唱へて漸く富豪
の着目する處となりたる一方には國家生産の爲め發達奬勵の要を説て救治策を工風する有
力者も現るゝに至りたるなど世間の人氣は次第に株式に向ふの今日是ぞ即ち市價の最低を
示したるものにして我輩は此の最低價のときに際し何故に金に不自由なき富人が逸早く濡
手に粟の奇利を博せざるやを疑ひ居たるに果せるかな近來府下の富豪は漸く其買入れに着
手して大坂東京兩市塲に手を回したりとは市塲に隱れもなき事實にして今は富豪も公然買
入を明言して憚る處なしと云ふ左れば株式市塲の數日來俄に活氣を添へたるも全く之れが
爲めにして此一事は明に氣運の到來を證するに足る可し或は右の富豪とて全力を株券に注
ぎたるにあらず一萬なり二萬なり相應の買入を爲さば夫れにて手を止むることなるべく其
買口の止むと同時に多少の浮沈もあることならんなれども其買入れたるものは再び市塲に
顯れざるのみか今後幾多の富豪も他の顰に傚ひ各々私有の財産を株券に移すは勢の當さに
然るべき處にして其一變動は一變動毎に價格を上進すること春夏の交、一雨毎に暖氣を催
すが如くなるべしと信じて疑はざる所なり况んや日本銀行の邊にも金融整理救治の策を行
ふの議を催ほして政府部内にも其議を賛するもの尠なからずと云へば此好時期に際して外
より有力者の誘導するものあらんには案外回復の速なるに驚くこともあらんか兎に角今日
の状勢より推すときは株式の前途は深く憂ふるに足らざるべし